競争社会=格差社会

久富善之『競争の教育』労働旬報社(旧称?)、1992年

学校は社会の縮図

「学校は社会の縮図である」というような言葉はよく目や耳にしたものだが、改めて一昔前の「学校」のような社会になってきたな、という印象を持つ。「荒れた学校」が社会全体に直接露骨に現象してきた、の感がある。

序 なぜ「競争」を問題にするのか
1 「競争」は教育問題の中心にある
今日の教育問題といえば、おちこぼれ、学力格差、非行、いじめ、体罰不登校などなど、深刻な諸問題がいくらでもあるが、それらすべてにつながってその中心に、学校社会における競争の激化と競争秩序の支配がある。

そっくり「今日の社会問題」などに置き換えることができるではないか。
「序」の続きは以下の通り。

2 競争が子育てを巻き込む
 競争の圧力は、親の体を貫いて子どもにおよび〔ここで言う「親」は学歴獲得競争を体験していない〕、その過程で、親のわが子に対する信頼を、苛立ちと否定に、そして、励ましを加罰に変えていく恐ろしい力を持っている。
3 競争が子どもの誇りを奪い、学びを空洞化する
 自己評価が他者との相対比較に縛られ〔一握りのトツプ以外に否定のメッセージ。正解のみを求める学習〕、学習を通じて確実に成長し豊かになる自分というものを実感できない──かくして、競争が多くの子どもたちの事故に対する誇りを奪い、その学びを空洞化している。
4 学校の競争が、社会の競争に連動する
 学歴獲得競争は人々を拘束してやまない秩序を創出しているのみならず、日本社会の支配的秩序に直結してきているという面からの検討が求められる。
5 競争は仕掛けることができる
 競争の組織者・判定者は、競争するもの同士を相互に争わせ、自らは彼らの上に君臨することができる。今日の学力・学歴獲得競争は、1960年代以降、権力によって国民の子育てに対して仕掛けられた競争である。
6 競争秩序の正体を見極めよう


目次を紹介しておこう。お勧めとして。

第Ⅰ部 競争の教育と学校
 1章 学校における競争の激化と性格変化
  1 日本の教育における競争激化はとまらないか  2 戦後日本の教育にみる競争激化への道
3 競争の性格はどう変わってきたか       4 競争の激化に対する防壁について
 2章 「閉じられた競争」下の学校性格
  1 学校制度の性格と学校体験          2 小・中学生の「学校体験」
  3 中学生と中学校教師の「競争観」       4 競争秩序の肥大化とその相対化の可能性
 3章 競争の秩序化と日常としての管理主義
  1 「競争が秩序になる」とは          2 学校間競争の論理と心理
  3 日常としての管理主義            4 競争秩序の下での管理主義の機能
第Ⅱ部 現代家族にとっての教育と競争秩序
 4章 現代の家族は競争に弱い
  1 「単身赴任」の増加と二つの競争       2 核家族が競争に巻き込まれるメカニズム
  3 競争価値の肥大化と家族の側の防壁について
 5章 ケーススタディ──「豊かさ」の底辺を生きる家族
  1 大都市札幌にて               2 貧困母子家庭の母親たち
  3 貧困母子家庭に育った青年たち        4 学校におけることがらのとらえ方
  5 住民が地域をとり戻す課題
 6章 階層差ものみ込む教育達成競争
  1 親・家族の違いは子どもにとってどういう意味をもつか
  2 階層差と競争の公正問題           3 学力・学歴獲得競争は階層差をものみ込む
  4 不平等形成の内部過程に踏み入る
第Ⅲ部 塾と学校
 7章 塾の「神話」と現実
  1 臨教審は塾問題をどう扱ったか        2 官庁データにみる学習塾の現況
  3 私立(国立)中学受験と塾通いの過熱      4 「甲羅のない蟹」がつくられる
  5 教育「自由化」論の一つの決算
 8章 小・中学生の通塾体験
  1 異常さを自覚しつつ現実を見る        2 塾通いについての基礎的事実
  3 通塾のメリットとデメリット         4 塾と学校との比較
  5 「塾と学校」へのアンビバラント

競争

マンハイム
  • 競争の主体は個人と集団とに区別できる。集団間競争は集団内部に協同をもたらす。
L. v. ヴィーゼ
  • 競争の対象について、「対象志向」と「主体志向」に区別できる。
  • 対象志向の競争で対象物(財貨、地位・名誉)が有限である場合、排他的競争となる。「主体志向」の競争も容易に対象志向の競争に移行する。
M. ミード
  • 「活動目的そのものに志向する競争」と「他者に勝ることに志向する競争」とに区別できる。

学校・制度//制度の内面化

制度や法律が、それに従う者によって・従うことによって日々再生産されているというようなイメージは持っていたが、「制度が内面化する」は新鮮であったので引用します。敵対的な制度でなければ制度は内面化する可能性は大きいだろうし、例えば「占領者による禁止」にいやいや従う場合でも、何がしかの思想感情が内面に形成されるであろうことは容易に想像できる。

2章 「閉じられた競争」下の学校生活

冒頭部分

 ひとつの社会制度である学校に“性格”というものがあるとすれば、それはどこにあらわれるであろうか。制度はその本質として、人びとの行動をある型に組織することを通じて、人間生活の特定領域の欲求を充足するものであり、その際、そうした行動型による欲求充足を「よし」とする価値や規範の意識をも伴うものである。だとすれば、制度は、そこで組織された行動型、そこでの欲求充足のされ方、それに伴う価値・規範、などにその性格をあらわすと考えてよい。
 制度に集う人間の側から言えば、それらは人間が制度をどう体験するかの内容である。学校という制度に集ってきた子ども・青年、父母、教職員などは、ソとなる学校制度を体験を通じて内面化し、かつ内面化したものを行動型として外在化・再生産することをとおして制度を成り立たせるのである。

なるほど、競争制度に従えば、その結果に伴うあらゆるものを「是」とする・結果としての自己の境遇も受け入れる心を醸成するであろう。そうであれば、なおさら学校に集う人びとは競争に駆り立てられるし、その競争が「閉じられている」(人生において他の競争も他のゴールも無い)場合は「競争を降りる」ことは「敗北」として下層を形成するであろう。
こうして格差と序列の社会を是認する心性が形成され、競争制度は「支配の道具」として機能している。
次章で久富氏はきちんと述べておられる。

……学校での競争は、日本社会全体をおおう「能力主義競争秩序」(渡辺治藤田勇編『現代日本社会の権威的構造と国家』東大出版会)の一翼をなすことで、この秩序の支配に対する承認と服従を人びとから調達するものとなっている。つまり、子ども・青年は、学校での競争をくぐることで、支配への服従を条件づけられ、組み込まれるのである。ことがらは、競争秩序が支配の秩序なるがゆえに、競争の正当化が、支配の正当化につながっているという構図になる。

競争秩序が教育を空洞化し、人間を物件化・要素化する

3章 競争の秩序化と日常としての管理主義

競争は競争と序列的な競争結果を秩序として参加者に受け入れさせる。今や学歴獲得競争へ不参加はありえず、不登校や「競争を降りる」ことは競争における敗北を意味している。学校もこの競争から自由ではない。私立中学が存在する都市部では、小学校もこの競争の参加者であり、学校間そして時に学級間・教師間の生き残りを掛けた競争が存在し、巻き込まれていく。

……そこでは学校の目的たるべき生徒たちが、学校の評判を上げるためのの道具・手段になってしまう……

学校という社会集団相互の競争において、偶然に獲得しえた「高い実績」が、「高い評判→高い難易度→可能性の高い生徒の入学→高い実績」というサイクルを生成している場合がある。また教育の力の発現・効果というものは短期間での検証が難しい場合が多いし「高い実績」を直接にもたらすものとも限らない。よって、「高い評判」には「実態的根拠」がない場合があり、かつ「実態的根拠」を得ることが困難である場合がある。
ここから、学校間競争は「高い評判」を得る評判競争になっていく。評判競争は教育実態とは遊離していく。そしてそれは、「外見」「見栄え」の良さを獲得する管理主義へと変質していく。
1990年の神戸高塚高校校門圧死事件における被告教諭の「上申書」には事件後も彼が学校の評判競争に縛り付けられているかが示されている。

神戸高塚高校校門圧死事件については下などを参照
http://osaka.cool.ne.jp/kohoken/lib/khk137a4.htm
http://www10.plala.or.jp/takatuka/index.html
http://www.geocities.jp/takatukamonpi/index.html
また、当事者の手記として『校門の時計だけが知っている』草思社、1993年

日常的に評価にさらされる学校・教師・学級、地域、子どもたち・青年たち

3章 競争の秩序化と日常としての管理主義

かくして、学校、とりわけその運営者たる教師は日常的に地域・上司・同僚その他からの評価にさらされている。そして近年の競争は、当該教師が「新米だから」という言い訳を許容しないくなっている。それは子どもにとっては子どもの内面や成長を見守ることなく「外見」を迫ることになる。公立学校も「非行が多い」という「評判」が立てば私立学校への「推薦」で不利になるし、教育疎開の対象にもなってしまう。

 また日本の場合、「青少年」に対する監視機構としての学校と教師に対する役割期待が高い、という点がある。制服(制帽)、校章、名札などの常時着用のきまりや慣習は、社会がこの年齢にある「青少年」を「学校の生徒」と位置づけ、学校外においても監視するシステムがあることを示している。

「逸脱」の排斥・取締りと支配の正統性

3章 競争の秩序化と日常としての管理主義

父母・子どもたちの学歴獲得競争と学校・教師の評判競争の渦の中で、それぞれ違う時間を生きている。

  • 勉強が「得意」な子どもたちは楽しく有意義な学校生活を送っている。
  • 勉強が「不得意」な子どもたちは、失意・無為・抑圧の時間を生かされている。

言及されていないが教師たちもそれぞれ違った時間を生きているのであろう。

  • 優秀校
  • 優秀ではないが「モデル」校
  • 底辺校
    • それでも評判競争に血道をあげている学校
    • ある種の住み分けに落ち着いてしまっている学校

以下に引用していて、陰惨な気分を免れることができない。今や、こうした「落ちこぼれ」(死語なの?)が社会全体に広まって青年たちと老人とを「見下す」ようになっている。

 学校における競争激化の中で、教育内容や教材に対する興味・関心が子どもの学習意欲をひき出すことが少なくなり、むしろ競争心を刺激するやり方(「ここは試験に出るよ」とか「そんなことではロクな高校に入れないぞ」など)が多用される。しかし、その競争からも「降り」て、競争刺激に反応せず、授業時間を無為・抑圧としか体験しない子どもたちには、どんな方法があるか。それでも無理やりに彼らを教室と机、学校秩序に縛りつけようとするところに、今日の多くの中学校、および「非進学」高校に広く見られる「管理主義」の「根拠」があり、その独特の姿があると考えられる。

 有為な(無為でない)体験の共有を通して、「自分たちにとって必要なもの」として受け取られるはずだった集団規律は、競争激化を通して体験の分断・分化の拡大、無為体験の蓄積によって、その道を閉ざされている。無為体験層には、学校秩序は意味がない。そこに、通常の教育(学習)活動の中では得られない「自己確認」の欲求も重なって、学校秩序への公然・隠然の反抗・逸脱が発生し、また組織化されることになる。……画一的な行動型の強要、そのひんぱんな点検と違反者に対する処罰などなど・・・この「監視と処罰」の体制は、点検し処罰する力に対する内面の服従を形成する「かくされたカリキュラム」である。集団規律の内面化を、有為な学校体験の共有を通してでなく、強要・監視・処罰のくり返し体験を通して、統制に服従する体と心の形成として行うのである。

 また、強要される規則に対する逸脱者が、当然ながら上に述べた学校無為体験層に偏って多く、この層は、学力は低い、諸活動への参加意欲は低い、ということも重なっているので、教師がことがらを学校のあり方の問題ではなく、その子の性格やその子が育った家庭の問題としてとらえてしまう見方を強化し、そこに一つの「見下し」が働けば、体罰や人権侵害にも抑制がきかないという事態も生まれるのである。

……〔「お前たちは家畜より劣る」http://www10.plala.or.jp/takatuka/kanren.html〕、『お前みたいな奴は学校をやめてくれた方がいい』……こうした「逸脱者」への「見下し」が、実は競争秩序を「正当化」し、支配秩序の「正当化」の重要なテコになっているのである。

競争の諸効果

4章 現代の家族は競争に弱い


競争の持つ諸効果。競争は競争心を生み、努力や集中力を引き出す。しかし次の一連の効果をも引き起こす。

  • 敵対化効果──ある者の獲得が他の者によるそれを排除する場合、競争参加者は相互に敵対化する。
  • 競争価値の肥大化効果──競争に向かうエネルギーに比して競争における勝利が至上の価値となる。
  • 判定尺度の抽象的一元化──公正な判定を求める力は、判定尺度の数量化・共通化をもたらす。給料・全国模試。
  • 競争の自己運動効果──競争により獲得される物事から競争それ自体が価値を生み出す。難易度の序列が勝ちの序列になり、競争が自己運動化していく。
  • 競争の秩序化・正当化効果──公正な尺度と注ぎ込まれたエネルギーに比して、競争の結果作られる「序列」と「格差待遇」についてこれを「公正・正当」なものとして受け入れる心情が一般化する。
  • 差異そのものの序列化──抽象的一元的尺度の支配により、差異は序列に、個性は格差に吸収され蒸着してしまう。

現代の家族がこのような「学歴獲得」競争に巻き込まれてしまう理由は何か。

  1. 核家族化により家族の機能が子育てにのみ大きな比重を置くようになった。(生産・祭祀・世代間扶助などの機能は失われたか外部化してしまった)
  2. 家族の目標価値が「豊かな生活」というような「消費的で他律的なもの」となった。自律的価値を家族が持ちにくくなった。
  3. 家族そのものが構成員に地位を付与することは無く、家族が序列を与えられるようになった。親の社会的地位やサラリー、子の学歴である。
  4. 旧大家族のような自立的生活保障機能が失われ、地域共同体のそれも失われ、地方自治体がそれを担ってきたが、最後的には家族の生活を守るには競争に勝たねばならないという嵐の現実に家族がさらされている。

競争は階層差を隠蔽し・飲み込む

6章
学歴獲得競争において、家族・家計の階層差の実証は簡単ではないが、蓋然的でも結果ははっきりしている。家族の階層差が学歴獲得競争に影響を及ぼしていることは間違いないし、そのような調査はいくらでもある。(最近の学費の高さだけでも明白。)
ところが、この競争における階層差という「競争条件」の差については「不公正」だと人々の目に映りにくいのが現実である。なぜだろうか。
親・家族の「差異」がすでにこの社会での競争を通して秩序化・正当化作用によって、「序列上の差」に転化している。だから上層の親は階層の有利を自分の属性として受け取り、下層の親も階層の不利を自分の属性(弱み)として受け取る。職業や年収、学歴などの親同士の競争において階層差は競争条件の差ではなく、競争主体の差として受け止められているのである。

 かくして、親の年収や学歴と子どもの学業達成との統計的相関が明るみに出されても、親・家族には、研究者がそれを見てそこに因果関係を読み取り、多くの人にとってこの競争は「勝ち目のない競争である」と名づけたりするようには映ってこない。つまり、ブルデューの言う親・家族が有する文化資本の子どもへの相続過程の「隠蔽性」は、統計的相関の表示によっては解除されないのである。
 付言すれば、かりにある親が、統計的相関を見て、……も、この競争から降りることは難しい。そこには競争からの「脱落者」という刻印と、それによる価値の下方への押し下げが待っているからである。

 また重大なことには、こうした階層格差と学歴獲得の相関の統計自身が学歴獲得競争を通じて生じる序列価値を肯定し前提していることである。教育達成の階層差統計はもともと「教育の機会均等」の主張を背景に成立してきたが今や競争秩序を強化する働きを持っている。

序列社会への隷属からの解放。展望・方向性

……端的に言って、どの子も居場所とやりがいを共同体験できる学校教育活動(教科、教科外を含めて)をつくり出すことが第一であろう。そこに子どもたちの確かな成長の実感をつくり出し、そういう共同体件を基礎にした、子どもたちの集団規律の形成が可能であるという実感を、子どもと教師と父母とが分有・共有することによって、あの〔評価を気にして強迫される〕「性急さ」を求めるまなざしも解きほぐすことができる。

現代家族は裸で競争にさらされ吸引されるのではなく

……一つは、競争価値の肥大化・判定尺度の抽象的一元化に無抵抗だった「豊かさ」志向ではない、抵抗力のある生活価値を家族の内側に築きだす方向〔が必要〕である。
 二つは、職場、学校、地域における共同の関係を再構築していくという方向である。む競争の中で、違いは序列となり差となる。共同の中でこそ、お互いの違いは尊重され、個性となる。