▼社会と社会観と教科観・教材観の分裂

もとは世界史は必修ではなかった

高校生たちの履修科目のうち、世界史が必修科目であるのに履修していないばかりでなく、学校全体がグルになって履修したとの虚偽の報告を行っていた。
たとえば、

 全国各地の公私立の高校に広がっている履修単位不足問題。単純に卒業に必要な科目を教えなかっただけではなく、「世界史的に地理を学んでいた」などの理屈で異なる科目を一体化させて履修させたことにしたり、表向きの時間割と実際の授業の内容が異なっていたり、学校によりさまざまな手段で「逸脱」が行われていた。「受験優先」のためには、なりふり構わない学校側の姿勢が浮かび上がった。【佐藤敬一】
 履修不足は最初に発覚した地理歴史だけではなく、情報や保健など多くの科目にわたっている。このうち、地理歴史では必修の世界史1科目に加え、日本史、地理から1科目を選択する計2科目履修しなければならないが、1科目しか履修させていなかった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061027-00000066-mai-soci

 高校必修科目の履修漏れ問題で、伊吹文明文部科学相は30日の衆院教育基本法特別委員会で、全国289の公立高校で履修漏れの生徒が計4万7094人に上ったことを明らかにした。学校数で公立全体の7.1%に当たる。履修漏れの生徒数が公式に判明したのは初めて。
 文部科学省の調査で、兵庫県で同日までに3校の履修漏れが判明し、公立の履修漏れは全国で32都道県に上った。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061030-00000028-jij-pol

もともと、「世界史」は必修科目ではなく「現代社会」が必修だったのだが、1989年に必修科目から「現代社会」を外した上で、「世界史」を必修にしたのである。このとき民主的で平和的で自主的・主体的な公民=主権者の育成という目標をカリキュラムの上で放擲したものであると批判されたように記憶している。(「現代社会」というなんだかコア・カリキュラムな科目もどうかと思われていたが)
このことは例えば下記では、「高校社会科解体」としている。(沖縄国際大学
http://www.okiu.ac.jp/gakumu/kogigaiyo/gaiyo/r110174000006134.html


だから、必修なのに教えていないのが「世界史」であることは、個人的にはインパクトがないのである。


社会科の解体

思い出した。
以前は「社会科」があり、


第1款 目  標
 社会生活についての理解と認識を深め,民主的,平和的な国家・社会の有為な形成者として必要な資質を養う。
 このため,
1 人間の存在や価値についての思索を通して,人間としての自覚を高めるとともに,自他の人格を尊重して基本的人権や公共の福祉を重んずることが,社会生活の基本であることについての認識を深めて,人間生活の向上を図り,進んで国家・社会の進展に寄与しようとする態度を養う。
2 社会生活の発展を時間的および空間的に把握させ,現代社会に関する基本的事項を理解させて,社会生活の諸問題を正しく批判し,問題を建設的に解決しようとする態度を養う。
3 国際関係と世界におけるわが国の役割を理解させて,国民としての自覚を高めるとともに,国際協調の精神を育成し,世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする態度を養う。
4 社会生活のあらゆる面が急速に変化発展している日本や世界の現状ならびに動向を把握させ,さまざまな情報に対処し,諸資料を吟味し科学的,合理的に研究して公正に判断しようとする態度とそれに必要な能力の基礎を養う。
http://www.nicer.go.jp/guideline/old/s45h/chap2-2.htm
となっていたのが

 広い視野に立って,社会と人間についての理解と認識を深め,民主的,平和的な国家・社会の有為な形成者として必要な公民的資質を養う.
と簡略化され、現代社会が登場する。現代社会は

人間の尊重と科学的な探究の精神に基づいて,社会と人間に関する基本的な間題についての理解を深め,広い視野に立って,現代社会に対する判断力の基礎と人間の生き方について自ら考える力を養うとともに,人間生活の向上を図り,進んで国家・社会の進展に寄与しようとする態度を育てる.
http://www.nicer.go.jp/guideline/old/s53h/
とされて必修科目だったのだった。

それが今では、
http://www.nicer.go.jp/guideline/old/
http://www.nicer.go.jp/guideline/old/h10h/
http://www.nicer.go.jp/guideline/


歴史地理
第1款 目 標  
我が国及び世界の形成の歴史的過程と生活・文化の地域的特色についての理解と認識を深め,国際社会に主体的に生きる民主的,平和的な国家・社会の一員として必要な自覚と資質を養う。
〔第1 世界史A〕
1 目 標   
現代世界の形成の歴史的過程について、近現代史を中心に理解させ、世界諸国相互の関連を近現代史を中心とする世界の歴史を,我が国の歴史と関連付けながら理解させ,人類の課題を多角的に考察させることによって,歴史的思考力を培い,国際社会に主体的に生きる日本人としての自覚と資質を養う。
〔第2 世界史B〕
1 目 標 
世界の歴史の大きな枠組みと流れを,我が国の歴史と関連付けながら理解させ,文化の多様性と現代世界の特質を広い視野から考察させることによって,歴史的思考力を培い,国際社会に主体的に生きる日本人としての自覚と資質を養う。


公民 
第1款 目 標
 広い視野に立って,現代の社会について主体的に考察させ,理解を深めさせるとともに,人間としての在り方生き方についての自覚を育て,民主的,平和的な国家・社会の有為な形成者として必要な公民としての資質を養う。
〔第1 現代社会〕
1 目 標
人間の尊重と科学的な探究の精神に基づいて,広い視野に立って,現代の社会と人間についての理解を深めさせ,現代社会の基本的な問題に対する判断力の基礎を培うについて主体的に考え公正に判断するとともに自ら人間としての在り方生き方について考える力の基礎を養い,良識ある公民として必要な能力と態度を育てる。

と変更されていたのだった。


処罰が楽しみ東京都

まぁ、虚偽報告している時点で教育者どころか社会人失格、詐欺、ペテンであり、高校生の救済の直後には大量に刑事罰を下さねばならないのではないか。
東京都などは日の丸・君が代問題であれだけ処分や矯正研修をしたのだから、虚偽報告をした校長はもちろん、虚偽報告を見抜けなかった管理者たちがどのような処罰を受けるか楽しみではある。
これは学校のカリキュラムの問題なのだから、現場の教師に校長がだまされたなどとは絶対にいえず、ひとえに学校管理者としての校長固有の責任が強く強く強く・厳しく厳しく厳しく問われなければならないのである。日の丸・君が代で態度が悪いとかいう程度の問題ではない。

すっごく楽しみ。


日本をダメにしている「学歴社会」と先棒かつぐ社会科教師

教育をゆがめる受験体制・学歴社会

それにしても、世界史を教えていないその理由は受験に必要ないから・不利だからということである。世界史必修の是非はともかく、履修せしめていない教科は他にもあるそうだから、東大を頂点にした大学の序列、学歴の偏重がいかに、「人格の完成」を目指す「教育」をゆがめているか、ということである。

社会科教師のソフィスト

高校社会科解体によって、高校の社会科教員が、高校にける社会科教育においてどのような教育目標を持つか、どんな社会観を持たせるかということを話し合ったり確認しあう作業が、原理的に不必要になってしまった。
歴史地理は歴史地理の、公民は公民の歴史観や社会観をそれぞれに設定しているのだろうか。
それでも歴史なら高校生に持ってもらいたい最低の歴史上の知識、歴史観というものがあろうし、教師の歴史観というものがあって、その歴史観に基づく(それが指導要領でがんじがらめであっても)教材の選定・教授の組立てというものがあるはずである。
歴史を青年たちに語るを職業にしている教員なら「譲れない」一線というものがあるはずである。
公民では平和的で民主的な主権者として進学したり社会に巣立って行かせるためには「絶対に譲れない」「教育内容」というものがあるはずである。

しかし、くだんの高校においては、歴史と歴史観歴史教育とはそれぞれに乖離しているのである。
歴史教員が教壇を借りて販売する音文・試験・単位というものは、歴史と異なっていても、彼の歴史観と異なっていても何ら問題ではなく、試験に役立つ限りにおいて意味のある断片化された「知識」であって、教員はソフィストと化していると言えよう。

ふがいない。なさけないとはこのことだ。

「歴史」は無価値

まあ、世界史とかは商品価値がないということですね。芸術的科目や保健体育も商品価値がない。
高等学校の教員だけではなかろうが、彼らにとって人類知識で価値あるものは商品価値の有無であり、尺度は大学の試験問題に出るか出ないかということである。
まだカルチャースクールのほうが人類の文化を伝えてるに「素直」かもしれん。


社会と社会観と社会(科)教育の乖離、歴史と歴史観歴史教育の乖離

分裂している教員

現象的には、「現実社会(=歴史)」と「教員個人の学的な社会観あるいは実感としての社会観」と「教えている社会(知識)」とは相互に無関係であり、無関係であるから必修世界史を教授しないことに抵抗がないし、虚偽報告に痛みを感じないということになっている。だから前二者が相互に関連していると主張する資格もない。

社会についての駄洒落のような知識

しかし、現実には一個の教員個人の中での過程であることに着目するならば、彼=教員における社会観は青年たちに伝えたい社会観ではない。青年たちに伝えている社会知識と彼の社会観は無関係であるような社会観である。
その社会知識の現実社会との接点は「受験」ただ一点である。それは偶然的な接点であるという以上の意味を知識としては持っていない。無関係なAとBとを結びつける駄洒落と同じ関係性しか持っていない知識である。

自分を隠す現実社会

現実社会のほうでは現実社会についての知識を公教育の過程においては拒否していると言える。その現実社会の公教育の過程で「現実社会の自己認識」拒否を媒介し、具現しているのは教員である。

教員における教育観・教科観、受動的・敗北主義的社会観

こうした、自らと自らの教科を受験のための商品とみなし、受験に無価値な世界史の不履修を受け容れ、虚偽報告の先を担いでいる歴史教員・社会科教員の教育観はまさに(繰り返しだが)、人格の完成・主権者の育成ではなく、商品の切り売り、商品の育成、具体的には「試験に良く反応する反射生体系の形成」である。
教科教員としての自己評価はそういう商品形成者としての効率性ということになる。
彼の社会についての知識はそういう商品形成の道具であるという以外には、駄洒落に過ぎない、ということは先に見た。
だから彼の社会についての知識と彼の社会観とは関係がないかもしれない。関係があるとすれば、彼にとって社会は駄洒落のような偶然の寄せ集め、或いは有機的連関を欠いた、諸事象・諸勢力の機械的天体的な作用・反作用無限に続く複雑に見えても実は単純な連鎖に過ぎないのではなかろうか。
あるいはそうではなく彼が販売している社会についての知識とは別に真の知識体系があるとしよう。でもその社会についての真の知識は、自身の教育活動について無関係であるし、教員として教育労働者としての現実的な力を何も発揮していない「真の知識」である。
そんな知識は、傍観的な受動的な、したがって敗北的な社会観しか形成し得ないではないか。

社会科教員を糾弾する

真の犯人、悪者は分かっている。
だが、社会科教員として・歴史教員として・公民の教員として、おのれをどう貫いたのか。社会科学(広義)を教える者としてどのような抵抗をしたのか。社会的分野の教員としての使命や誇りはどうなっているのか。
世界史不履修の高校の社会科教員には歴史とか社会とか生徒の前で口にする資格がないと言われても仕方がないのではないか。

教員団体はどうしているか

日教組、全教、歴教協のホームページでは本日現在無反応。
日高教は以下の通り
http://www.nikkokyo.org/
http://www.nikkokyo.org/undo/seimei/2006/pdf/061027.pdf
声明に書いてあることには同意だが、どうも「被害者面」である。
教員は誰も自己批判しないのか?


まだ、これからなのだろうか。

北海道教育科学研究会のブログへのコメント

コメントを書いたのですが、字数制限があったので、トラックバックをお送りすることにします。
書こうと思ったコメントは次の通り。
もとの記事はここです。
http://blogs.yahoo.co.jp/doukyoukaken/41434582.html

(前略)
受験競争の加熱の中で、公教育本来の役割を見誤って起こったのが今回の事態であることを考えると、……中略…… 誰もが進学でき、その中で優秀な人材、適性のある人が評価され、活躍していけるシステムをつくることをこそ目指すべきだと考えられます。

とのことですが、これでは学歴による人物・労働力評価の序列、つまり受験競争の源泉たる学歴社会というシステムに対するオルタナティブにはなっておらず、ただ現状の学歴社会を言い換えただけではないでしょうか。
というのは、高校全入になって(ではありませんが)、受験競争が緩和したかというと、そうではないでしょう? 大学全入を実現してもそれだけでは何も変わらないのではないですか。

また、
1. 必修科目を履修せしめないで、
2. 虚偽の報告をしていた高校もあったが、
3. これは受験競争の激化の影響である。
4. それにしても世界史が必修科目でなければこんな問題はなかった。
この四つはまず、それぞれ別の性格・性質の問題だと思います。私もシロウトなので、コメント欄で展開はしませんが。
もちろん、教育基本法とは無縁だとわたくしも考えます。

で、記事の末尾=引用部分は、お書きになった内容ではなく、いかに教育基本法に言う「人格の完成」を目指すのか、とか、その「人格の完成」において高等学校で生徒たちに身につけてほしい「公民の資質」や「歴史的思考」の力や「国際性」を軽視しない教育課程の編成がなされるべきだとか、そのために何が必要かとか、そういうことを「教育科学研究会」のブログでは述べていただきたいものだと思います(会員でも教育関係者でもありませんが)。

ちょっと言い回しがイチャモン臭いですが、ご容赦ください。


大学全入?

受験競争の過熱が門の「狭き」に源泉ありという側面はあるでしょう。では、大学全入、大学義務化で受験競争は緩和されるのだろうか。私の答は前述であるが、もっと厳しい考察として、ワタリさんの記事を紹介しておきます。
大学を義務教育にするべきか?『フリーターが語る渡り奉公人事情』(引用は一部のみ)

これまで日本では、準義務教育とも言える高校を卒業できない人間を労働市場から追い出すか、もっとも条件の悪いところに閉じ込めてきた。
それは中等教育のカリキュラムにあわない人間を労働市場からはじき出し、冷遇する仕組みだった。
それを大学にまで拡張すれば、学校があわないタイプの人間はどこまでムリを重ねればよいのだろう。
職人的な仕事の価値は、今以上におしこめられ、強制的に通わされる大方の人たちは鬱屈を重ねるだろう。
そこは収容所独特のいやがらせの温床となるだろう。また、各大学各学部が今以上に細かくランキングされ、画一的な価値と文化のもと、多様性が圧殺されるだろう。