▼「奉仕活動」が学校と教師を支える

直感的連想

教育再生会議は奉仕活動を義務化したいそうだ。

■<教育再生会議>高校で社会奉仕活動を必修化、明記の方針(2007.1.15毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070115-00000003-mai-soci

「社会奉仕の義務化」という文言を見聞きしたとき、直感的には

  • 「善意の発露の義務化」=「自発性の強制」というナンセンス
  • 滅私奉公・国家主義の醸成、精神注入棒

が主な柱となる反射的連想を持った。

直感的に危惧されること──社会奉仕活動のアリバイ化・目的化──

しかし、社会奉仕、奉仕活動、ボランティアというものに教育的な意義がないかというと、そうでもなさそうな気がするし、「再生会議」が意図している社会奉仕義務化の狙いは教育的期待というよりは「しごき」による「順応」「服従」のほうが近いというイメージがある。
現場で危惧されるのは、あいまいでいい加減な「教育目標」のもとに漫然と「ゴミ拾い」などの「社会奉仕活動」が組織されるなど、無駄な時間が増えてしまったり、目的化された社会奉仕のための「ゴミ拾い」修学旅行などというものが多発したり、みょうな愛国心と結び付けられて宮内庁施設の掃除だとか、そんなふうにならないかということである。
馬鹿馬鹿しくても、それが学校や校長のアリバイだけでなく、評価につながるのであれば、安全の範囲内でいくらでもやるのではないか。
直接に同一の例ではないがうちの近所では、「教育」の名の下に、生徒を観光パレードに駆り出すこと(行進させたり演奏させたり)が実施されている。生徒が観光パレードに出ること自体が全く無意味とは言わないけれど、その目標が「やればできるという自信」「地域の中での学校の自覚」などを促すとかだけ説明されても、全然信頼したり理解したりすることができない。漫然と去年もやったから今年もやるんじゃないのか。

勉強の課題

調べていこうと思うのは、(社会奉仕・奉仕活動・ボランティアを含む)

  • 教育改革国民会議における「社会奉仕」
  • 中央教育審議会における「社会奉仕」
  • 東京都教育委員会、東京都立高等学校における「社会奉仕」
  • 教育再生会議における「社会奉仕」
  • 刑罰としての「社会奉仕」(処遇というらしい)
  • 兵役の代わりとしての「社会奉仕」(ドイツ、韓国など)
  • 職業体験教育
  • 労作教育
  • ソビエト教育学における労働による教育
  • 苦役、強制労働、奴隷労働

などなどである。調べるといっても先行言及の引用・リンク寄せ集めであるが。


社会奉仕活動義務化によって変わるのは生徒ではなく学校と教師

ところで、「奉仕活動」を義務にしようがしまいが、学校や教師が生徒に命じて奉仕させるのだから、命ぜられる生徒には同じだ。大抵の場合、学校や教師(校長かな?)から発せられる「社会奉仕」命令に対する拒否権や選択権はないのだから。
違うのは命ずることが義務となる教師である。
生徒たちがイソイソ・イヤイヤ社会奉仕活動に従事することによって、学校と校長と教師の評価が決まることになるのだから、つまり奉仕活動によって学校が支えられるということになる。今、「奉仕活動義務化」の「提言」について言える一番大きなことではなかろうか。
そういえば、日の丸掲揚、君が代斉唱の半義務化によって何が変わったかって、学校・校長・教員の評価のありようである。「日の丸・君が代」導入の目的は「教育」上の営為や工夫などの真摯さや生徒の学力の向上ではなかった。
そうではなく掲揚・斉唱を、やったかやらなかったか、指示・命令に従ったか従わなかったか、生徒を服従させられたかさせられなかったか、そういう政府文部省をトップとする機構の上部に対する学校・校長・教員の忠誠と、下部生徒を従わせることができるかどうかというテクニックとが外的形式的に評価され、許されたり評価されたり罰せられたりする。そういう踏絵制度・犬的忠誠労働制度の導入ではなかったか。()
社会奉仕活動を「義務化」することで生徒に「好ましい」変化が起こったら良いけれど、変化しなくても生徒にとってはもちろん、教師にとっても当座はどうでも良いことで、鋭く問われるのは「社会奉仕活動」の計画書と実施と自己評価、学校評価ではなかろうか。