▼「社会的排除−包摂とは何か?──概念整理の試み」

菊池英明氏(国立社会保障・人口問題研究所)2006年3月
http://www.ipss.go.jp/publication/j/DP/dp2005_09.pdf

ようやく読んだ。

イギリスのサッチャリズムの批判的獲得

今、日本ではイギリスのサッチャー時代の新自由主義的な改革がモデルになっているところがあるようだ。
ところが、教育も福祉もイギリスでは20年経った今日、それらの改革はうまく行っていないという反省も出されているとのこと。
福祉受給者に「自立」を「強いる」福祉切捨ては大多数の受給者の生活や環境を悪化させ、コミュニティを破壊したし、詳細不明だが教育改革は、エリート校と教育困難校とを生み出した、という。
その失敗が保守党政権を終焉せしめ、労働党政権を導いたらしい。

わたくしとしては、イギリスのこれらの改革について反省的・批判的に学ばねばならないと思った。

仕組みとしての社会的排除

1970 年代以降の欧州では、経済産業構造の変化(脱工業化)によって、特に男性非熟練労働者の需要が減少し、社会保険によって防貧を行う福祉国家モデルを揺るがす事態が生じていた。このような事態を単なる一時的な貧困・低所得概念のみからとらえることはできないことが徐々に認識されるとともに、経済産業構造の変容によって機会が剥奪され、その状態が再生産されるカニズムが、「社会的排除」と呼ばれるようになった。

しかし、イギリスでは社会的排除、失業等の問題が「コミュニティ」の劣化やそれにともなう「インフォーマルな職業紹介」がなくなったことと結び付けられて捉えられ、対策もコミュニティの文脈の中で立てられてきたとのことである。

イギリスに於ける社会的排除

イギリスに於ける社会的排除論は、包摂論と対をなしている「排除論」である。

社会的排除とは、以下二つの過程を指す。
第一に、1970 年代以降の経済産業構造の変化(脱工業化)によって労働力需要の変化・減少がもたらされる過程である。その中では底辺労働者や移民など、失業・低賃金などの形で構造的に不利益を受ける集団が創出されることになった。
第二に、場当たり的な福祉的介入によってコミュニティが外部から隔離されるとともに、内部のつながりが弱められたことによって、低学歴・無資格者が増えるとともに、インフォーマルな職業紹介機能が低下した結果、失業等の問題が深刻化する過程である。

ラディカリズム

これに対しては当然、バイアン(倍安?!)のような論もある。

社会的排除とは、脱工業社会的資本主義がもたらした「産業予備軍」への搾取の一形態であり、、根本的には階級関係として認識すべき問題だとする(Byrne 2005: 51)。ならば、社会的包摂とは、グローバル化・脱工業化によって生み出される低賃金や雇用不安定等の改善、並びに世界的な規模での再分配を、ローカルなレベルでの団結を通して実現するような政治的文化を生み出していく過程である。

しかし、階級関係として認識される社会的排除を、後半のプロセスで克服することを「包摂」と呼ばなくても良いような気がわたしはする。

また、

アンダークラス概念を用いた)フィールドは、彼らが内面化する逸脱的文化の問題よりも、経済産業構造の問題を強調し…… 未熟練労働者の需要が減少し、就労経験が希薄になったことが、逸脱的な文化を内面化させ、アンダークラスの再生産をもたらしたとの認識が基本にあり、その悪循環が保守党政権の失政で増幅されたとする。

との意見もある。

メモ

社会的排除−包摂──イギリスの対応

イギリスにおいては、「基本的にはコミュニティへの支援を通した人々の自律や就労の促進という、行動やスキルをめぐる対策が主体となっている」が、これは「労働力需要の変化・減少という構造的な問題を、個人の行動の善悪や意欲の問題に帰する」ことになっている。

福祉による社会問題の隠蔽

 フレイザーによれば、福祉国家が従来行ってきた所得再分配制度(公的扶助)は、特定の集団が「周辺化」される経済産業構造を基本的に維持した上で行われる。
 その結果として、母子世帯、エスニック・マイノリティといった形で〔福祉〕「受給者集団」が可視化される。その過程で特定の人々にスティグマが付与され、人々のまなざしその逸脱性に注がれることによって、根源的な問題である、経済産業構造がもたらす不平等は効果的に隠蔽される。

ボランティア・クーポン

ボランティア・クーポンという言葉はないのかも。と思ったらあった。本文ではこういう用語は使われていない。
社会的包摂論のオルタナティブとして、ボランティアの功徳を、所得保障にの根拠とするというアイディアがある。問題としては、ボランタリーワークへの参加の有無のチェックせざるを得ないため、監視社会化の問題や、補償の網からこぼれ落ちる者を生むということなどがあるという。

日本の青年

本田氏などによれば、日本の青年は「学校経由の就職」というコースが定番で、職業教育訓練は企業に担われてきた。ところが、このコースが難道になったにも関わらず別コースの就労支援が手薄であるところに、青年たちは福祉給付の対象となりにくいため、親と同居する「パラサイト・シングル」などの形での「対応」を余儀なくされている。
にもかかわらず、パラサイトシングル、フリーター、ニート、ひきこもりなどの用語は、社会経済構造との関連ではなく、彼らの現時点での行動や、親・過程の問題に矮小化される傾向がある。


日本の生活保護

日本の生活保護スティグマ、漏救などの問題がある。
近頃、北九州や秋田などで保護申請を断念させたり、保護を取り下げさせたり、申請を受理しないなどの事例が頻発して、餓死・自殺など悲惨で非人道的な事態を招いている。
生活保護の申請に行くのが恐い、ケースワーカーが恐いという申請者・受給者も少なくない。
日本の生活保護は、地域担当のケースワーカーが被保護者に対して殺生与奪の権限を握っている。どんなイヤな恐いケースワーカーでも受給者は忌避できないし、医療のようにセカンド・オピニオンを得るすべもない。
それどころか、振り込まれたり手渡されたりする保護費の明細もないのである。
なぜ自分の保護費はこの金額なのか、多すぎないのか少なすぎないのか、母子加算(廃止?)、障害者加算、老齢加算はあるのかないのか。保護費増減の理由は何なのか。被保護者には知らされない場合がほとんどらしい。
ケースワーカーが後ろ手でウラガネを作ったり、ピンはねしていてもわからないのである。


本文にはないが、一説によれば福祉局保護課というのは、陽の当たらない職場であるのだとか。


本来困窮した住民を見つけては憲法に謳われた人間らしい生活を、まさに自立を支援しながら構築して行こうという崇高な公務であるはずの福祉の職場は、今すさんでいるとのことである。
これはもっと福祉労働者、公務労働者が自らの誇りをかけ・取り戻すために自ら声を出さなければならない問題である。京都市のようにケースワーカー犯罪予備軍視されたまま、市民の理解も支援も得られないようでは、公務労働者は、監査のために仕事するほかはなく、公務労働者としては自滅するだけではなかろうか。