▼徹底した反コミュニケーション的学校

東京都「学校経営支援センター」による専制運営の強制

都立学校に対する都教育委員会の驚くべき介入の実態 【2008年2月21日】

日本共産党東京都議会議員団は

情報開示請求によって入手した文書を分析した結果、教育委員会と学校経営支援センターが、「自立的な学校運営への支援」をおこなうどころか、逆に、教育の自由と学校の自立性を踏みにじる、学校に対する問答無用の管理統制を行っていることが明らかになりました。

http://www.jcptogidan.gr.jp/html/menu4/2008/20080221171210.html

という報告を公表した。

傀儡専制独裁者としての校長

PDFファイルに同党議員団の「分析」からの「事例」が紹介されている。抜粋

(1)開示文書に見る問答無用の介入の具体的事例

●職員会議の司会者、記録者の選任に関する干渉

都教委は職員会議での司会者や記録者を、校長が自分で直接選任するよう指示し、副校長が指定したり、教務部が原案を作成したうえで校長が指定することも認めません。

●職員会議での挙手はどんな場合でも禁止

職員会議での挙手は、多数決はもちろん、参考までに上げてもらうことも一切禁止です。
「校長の判断で職員の意向を確認」(資料?)していても、「最終決定は校長が自らの判断に基づき明確に行って」いても、評価は「△」や「×」で、挙手は一切行わないとの改善計画を書かせている例が多数あります。

●企画調整会議は画一的に週1回の開催を押しつけ

管理職と主幹などで構成される企画調整会議を「中枢」と位置づけ機能させるために、何がなんでも週1回の実施を押し付けています。

●職員会議が形骸化

上意下達の硬直した学校運営の徹底により、職員会議が形骸化している様子もすでに見受けられます。「職員会議は企画調整会議の決定事項を連絡、周知する場」となり、「審議や協議は行っていない」、「協議事項に関しても確認の場になっていて意見交換もほとんどない」(資料⑦)と、職員会議で教職員が議論や情報交換をすることがない学校が増えています。

(2)教職員はもの言えず、子どもの教育にも影響が

C高では、報告事項は配布物を見ればわかるので、職員会議に出席する意義が失われています。他の仕事が優先され、会議開始時には約50人の教員のうち7、8人しか揃いません。発言を求める人は半年に3人くらいしかいない状況です。

また、職員会議の性格が決定事項の伝達になったため、「意見を言っても反映されないので言う気がなくなる」、「決定事項が全体に支持されているかどうか、確信が持てない」、「自分のクラス、分掌以外のことが表面的にしかわからず、責任が持てない」、「これまでは職員会議で自分とは異なる意見、様々な考え方を知ることが、教師としての成長につながっていたのにそれがなくなってしまった」などの意見が多くの教員から出されています

●学校が子どもたちより学校経営支援センターに向いている

学校の管理職が、都教委の顔色ばかり見て生徒そっちのけになっているという声もあり
ました。

パワーハラスメント的な管理職の対応が進行

道理にもとづく合意より「校長権限」による強制が奨励される現状に、職場が殺伐としているという声もありました。本来学校で誰よりも人格者であるべき校長が、怒鳴り散らす、副校長を叩いた、電車が遅れ遅延証明を出したのに「こんなんじゃ教師失格だ」と理不尽な叱責をするなどのパワーハラスメントや、子どもが病気なのに「年休だよね」と看護休暇をとらせない、生理休暇も「本当にそんなにつらいの」と疑うなどの権利侵害も進行しています。
(以下、抜粋せず。)

教育労働の荒廃を招く

感想。

校長は権力を持ったパイプに

校長だって人格を持った教育者であり人間であるし、部下の支持も得たければ理解も得たいだろうし、自分も人の意見を聞いて、自らの教育方針を豊かにしたいという要求を持っているのではなかろうか。
しかし、ひたすら専制的管理者であることを求められ、しかもチェック事項は(多岐にわたろうが)教育委員会の言うことを忠実に実行しているかどうかということが重要になっているのではないか。
これでは校長も教育者としてはなかなか生きていくのが辛かろう。人によっては一管理者として楽しく暮らすのも困難かもしれない。
こういう統制に対して適応できる人物とはどういう校長であるか。
とりあえず教員は取締りの対象というのが基本のひとつにならざるを得ないのではないか。

競争に勝ちたいだけのサイテーの教員の育成

まず、職員会議には出席しませんね、私だったら。喜んでこういう会議に出席する教員は、上を見るのが好きで好きでたまらないのだろう。
報告を読んでいて労働意欲が失せる。
こういう教員が教壇に立つ・クラスを持つ、クラス間競争・学校間競争・教員間競争にさらされる。当然次のような意識や欲求を持たざるを得ない。

  • 平均未満の児童生徒は自分の敵
    • 自分の教員としての価値は子どもではなく上司が決める。
    • ダメな子どもは自分の評価にとってマイナスでしかない。
    • ダメな子どもは自分のクラスにいて欲しくない。
    • ダメな子どもは学校に来て欲しくない。休むとほっとする、試験の時には休ませる。
    • ダメな子はよー、塾にでもよー、通ってよー、学校来んなよー!
  • 同僚ももしかしたら自分の敵
  • 低学力の貧困地域が憎くて憎くて憎たらしい
  • 自由な意見を言う同僚や親も敵

自分もちょっとだけ非常勤講師をやったことがあるが、こうして孤立したまま生徒の前に立つというのはものすごく辛いことである。こうして孤立したまま児童生徒の前でニコニコしておられるのは、自分の専門かあるいはアブノーマルな趣味かに逃避している人であるか、闘う人であるかのどちらかになっていくものである。
東京都民じゃなくて良かったな〜、ワシ。

青少年はどうなるのか

学校には何も期待できない

肝心の子どもらや青少年はどうなるのか。
こうしたパラパラの昨日のヒヤメシのような教員たちに何か人格的なものを求めようと思っても、無駄であるか有害である。
公立の中程度から上をウロウロしている小中高は競争も激しいだろうから有害。

教員に取り入る・媚びへつらう

何が有害かって、教員は自分の気に入った生徒をしか気に入らないし、何かの成績を上げて教員にこびへつらわなければ教員に気に入ってもらえない。子どもが教員から嫌われるというのは、子どもにとっては学校が「職場」なのだから、これは大変なストレスである。とりあえず、教員から嫌われないよう、教員を不快なストレッサーにしないように処することになる。塾に行く。オバカな友達とは付き合わない。おバカだという自覚のある子ども等は奉仕活動をまじめにやりなさい。

教員は人生の障害物である

教員に気に入られたからって、別に何か与えられるわけではなく、教員が生徒を気に入るのは、その生徒が自分の評価にプラスであるからにすぎない。無問題で成績優秀ならそれでよいのであって、優秀な傀儡であることだけが求められる。そのことで何か学習意欲がわいてくるとか賢くなるとかいう保証はどこにもない。
教員は学校人生の障害物である。ぶつからないようにクリアするのが良い。

友達とは何か。

こうした教員が、子どもたち同士の友情とか、集団とかいうことを、どのように理解し指導するか、残念ながら経験や想像力がないので私にはわからない。
たぶん、他クラス・他校との比較において有利なように人員構成した班を編成するのがベスト。そこに自分の傀儡を置いて、その傀儡がうまく他の子ども等を屈服させたり・懐柔したりするのが一番よい。それが理想。
その子どもがリーダー型であれば、心ある親としては要注意である。なぜって都知事 > 教育委員会 > 校長 > 教員 > 委員長 > 班長官僚主義の血脈の末端で「正義」を振りかざすヒラメ野郎なのだから、あんたのガキは。
いずれにしても子どものくせにそういう自分の頭で考えないのに考えたつもりになって振舞うことのできる人物は、早々に挫折を深く味あわないと大変なバカになってしまうのではないかと、憂慮する。そういう人物がまた宣伝カーに乗ったりするのかな。