▼「学校への無理難題要求」テーマに大阪大の小野田教授が講演

「困った親」バスターではない小野田教授

http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2006082200159&genre=F1&area=S10&mp=
前回、「学校への無理難題要求」について触れたのは
http://d.hatena.ne.jp/ost_heckom/20060813/p1

しかし、いったいどういうお話をされたのか、少し調べてみた。

●教研ニュース no1 2006.5.10 沖縄県高教組南部支部
http://www16.ocn.ne.jp/~kokonanb/kyouken/kyoukennews1.doc
●学校讃歌ブックレット・プチ2006 「子どものために手をつなぐ〜学校へのイチャモン(無理難題要求)のウラにあるもの〜」
http://www16.ocn.ne.jp/~kokonanb/kyouken/06hatukouen.pdf

後者の「子どものために手をつなぐ」を読んで、報道のニュアンス、もしくは前回の私の受止めと、小野田さんの問題意識や活動とはことなる面が大きいことがわかった。「困った親」が増えてきているので、これを撃退・撲滅もしくは回避しようとする、学校保身・教員保身的なものではないのである。

 長期不況、リストラ、勝ち組・負け組みといった言葉に代表されるように、今の社会の状況は相当に厳しく、「他人のことなどかまっていられない」という意識が強くなることはやむを得ないのかもしれません。このような状況のもとでは、時として、相手に対して高飛車で暴力的な物言いや行動が出てしまい、そのことによって関係性が壊れていく場合もあると思います。しかし、「やはり人と人が助け合ってこそ健全な社会が作られるはずだ」という思いから、ご自分のできる範囲で「癒し、ほぐし、繋ぎ」の役割を果たしておられる方……も多くいらっしゃるはずです。……
学校と保護者の間には、今どのような壁があるのか? 相互の理解を阻んでいるものは何か? 「我が子のことばかり」「自分中心」に見える保護者の各種の要望・要求のウラにある「本当の願い」は何か? どのようにして学校・保護者・地域は「子どものまともな成長のための共同の取り組み」ができるのか? そういった可能性を展望したいと思っています。

以下、小野田氏の言をまとめてみる。

イチャモンをどうとらえるのか

イチャモンの時代

郵政民営化法案否決→衆議院解散、イラク戦争、など「言いがかり」「イチャモン」的なことが行われている。イチャモンは学校−保護者だけの事象ではない。

イチャモン研究の意図

ここ数年間の日本の社会構造の変容、新自由主義路線に基づく矢継ぎ早の「教育改革」のオンパレードによって「何か」が破壊されてきていることの現われとしての「イチャモン」。
学校と保護者との間の壁はどのようなものか。相互理解を阻んでいるものは何か。
この「イチャモン」の調査・研究により「人と人がむすびあえる社会であり続けるために」必要なことはどういうことかを浮き彫りにしたい。
学校現場−保護者−地域が共同の営みを行えるようにする道筋を明らかにしたい。

イチャモンの急増

学校に対する要求類型の整理

  1. 要望……当事者の真意も明確で、非匿名の場合が多い
  2. 苦情……とにかく責任は学校にあるとの判断に基づく要求。守備範囲外あり、匿名多し
  3. イチャモン……学校の責任範囲を超え解決不可能もしくは理不尽。匿名もあり
イチャモン例と特徴

報道されているものより理不尽なものあり。学校外でも・地域からも

  • うちの子を誰とも喧嘩させないと念書を出せ
  • 石を投げてうちの子が学校のガラスを割ったのは、そこに落ちていた石が悪いのであって、うちの子は悪くない
  • 日曜日に公園で起きた子ども同士のいざこざについて、謝罪と補償を求めて月曜に学校にもちこまれる
  • スポーツ大会での判定をめぐるトラブルから教育委員会に相次ぐイチャモン。9時〜5時抗議電話
  • サッカーでの相手チームの親のヤジ、校長に謝罪させる
  • 子どもの声がやかましい、なんとかしろ。運動場の砂が飛んでくる。運動会ヤメロ。ニワトリ飼うな。オレの家の前を通って通学するな。

イチャモンは匿名化権威主義(いきなり文部省や議員に「要求」)しているのが特徴。
「学校はゴミ箱、教職員はサンドバッグ」状態。教職員はツブレ、学校は萎縮している。学校はほとんど迷惑施設。

社会全体に広がっている「イチャモン」の風潮

  • 道理もなくムチャな「構造改革」。絶対的に必要な社会的規制までも緩和・撤廃。生活はしんどくゆとりがなくなっていく。
  • 「いじめ」の構造に似たつぶしあい。「鬱憤晴らし」に似て、原因の整理・本質的な課題の検討など抜きにして徹底的に当事者を非難し追い詰める。「契約社会へ移行するきしみ」なのか。
  • 70年代までの労働運動・消費者運動の衰退が、さまざまな要求を受け止め・整理する装置の弱体化・無力化として現象し、各自の不満は非組織的・個別的・未整理で直接的・先鋭化している。個人は無力化・孤立化しているがゆえに「尊大」となる場合あり。
  • 怒るべき相手ではなく、弱い者・反撃できない者へと「攻撃」が向けられていく(政治家の暴論や大罪は見過ごされ、庶民のささいなミスばかりが狙い撃ち)
  • 強い者が弱い者を叩く。弱い者はさらに弱い者を叩く。「仮想敵」としての公務員と教職員。

イチャモンを言う保護者と問題教師を並べて「どっちもどっちだ」と言っても解決にはならない。

イチャモン急増はなぜ?

「改革」のたびに学校は「疲弊」。学校と地域、学校と家庭のコミュニケーションチャンネルの全ての場(家庭訪問、懇談会、連絡帳、学級通信等々)でイチャモンが発生。
一方家庭の教育機能はこの30年間低下するばかりで、学校が際限なくそれをカバーしてきた。


いくつかの仮設

  1. 本の学校は生徒指導を機能として受け持っているので、苦情の窓口として際限なくイチャモンを受けざるを得ない。
  2. マスコミによるステレオタイプ化した学校像・教師像報道のくり返しによるイチャモンの増加・増幅
  3. 「教育改革」が教育不信・学校不信を招いた、その「尻拭い」を学校がさせられている。
  4. 1960〜70年代以降に生まれた親に問題ありか?
    • 1960年代は少子化の始まり。
    • 校内暴力の世代。80年代は校内暴力減少。
    • 学校への期待の肥大化(1965年「生徒指導の手引き」、1979年「金八先生」)
    • 80年代後半にバブル
    • 「自分の問題と捉え、自分に何ができるか」を考える文化から、「自分のせいではないと捉え、他人に何をしてもらうか」を考える文化への転換。
    • 没落の危機に慄く「新中間層」の動向
  5. 「商品としての教育」という認識と感覚がイチャモン増加に拍車?

学校にできることなど

  1. 事実確認
  2. 分析して問題点を整理
  3. 保護者との懇談、意思疎通
  • 「渦中にある現象」と「本質(願い)」とを区別すること
  • 一人で背負い込まず、徹底して共同化する
  1. イチャモンは時と人を選ばない。しかし本質は子ども。子どもを取った方が勝ち
  2. 教職員が子どもと触れ合う時間が減少すればするほど、イチャモンは増加する。

2004年スマトラ沖大津波でも、ハリケーンカトリーナ災禍でも暴行・略奪・強姦が横行したが、阪神大震災ではほとんど起きなかったのは日本の学校文化の力であるということ再評価すべき。
社会崩壊の防波堤としての学校を幅広い共同的取り組みが必要。→研究組織の設置。
教職員が元気をなくさない取り組みが必要。「いつかわかってくれる」という教員文化・学校文化から脱却してパフォーマンスすることが大事。→仮想的としての教育公務員のいる公立学校の民間丸投げが狙われている。

ここまで。