▼凶暴化する「お客様」

要求する親 問われる教師

私は仕事で観られなかったが、NHK 2007/02/01(木)放送「要求する親 問われる教師〜すれ違う教育現場〜」は激しい中身だったと友人は言う。
予め、私の答を言うと「それは自己愛的幼児性が広まって・強まった」という側面が大きいのではないか。
その友人は「まさにピッタリ、その通りの感想だった」と。それが全てではないだろうけれど。
教育に関しても医療に関しても、親や保護者・患者・住民ではなく「お客様」「納税者様」として事態を捉えると理解しやすい場面が多くなってきた。あるいは以前からそうであることに気づかなかっただけか。
以下は、この分野での知識はほとんどないのだが、だらだら書いたものである。モラル低下問題の全てをカバーするものでもない。一つか二つのことだけである。

 

どこからどこまでがマスコミのキャンペーンなのか分からないが、確かに「親」「オトナ」たちのモラルのかつてない低下現象をテレビなどでよく目にするような気がする。
一方で「ひどいオトナは前からたくさんいる」と言われれば否定する根拠も私は持たない。
 しかし、最近のモラル低下の要因の一つに

モラル低下<社会性の欠如=自己愛的幼児性<負担感の増大<拝金主義<貧困層の拡大と貧困の深化/孤立した消費者群の自己責任<企業活動の規制緩和・民間委託/雇用破壊/社会保障への受益者負担主義の導入<新自由主義構造改革

という換言して「基本的生活領域の暴力的な市場化・安全性の商品化/保護者=生活者の消費者化/患者の医療消費者化」に端を発する機序があるのではないか。


また、モラル・人権意識の理論的な支柱が脆弱になっているのではないか。
職場や人生では、倫理より成果・現金・運であり、他人からの干渉や人権侵害を乱暴に跳ね返し・受け付けない「力」への憧憬・崇拝があるのではないか。

もともと脆弱で形式的な平等原理

病的ではない程度の「他人に迷惑を掛けるかもしれない自分への不安」が自分に規制を掛け・「恥」の根拠となり、自分を客観視する足場になっていたとすると、この「不安な自己像」は希薄になっているのではないか。
法学関係を少しでも学べば、解明済みのことなのだろうが、この「他人に迷惑をかけない」倫理の階級的根拠は何なのか。これは「復讐の等価性」原則、「他に迷惑をかけたら自分もかけられても文句を言えない」というような原則、人格の平等を原則にした小商品生産者的なイデオロギーではなかろうか。

他人が怖くない大資本の心理

ところが、これが消費者イデオロギーもしくは大資本イデオロギーに置換されているのではないか。
後者は前からそうである。大資本は他に大きな迷惑をかけても国家権力が法律以上に確かな根拠をもって自分を庇護してくれるし、証人や被害者の買収も「費用」として認識してこれを可能にするから「他人に迷惑をかけない」という原則の重みは小さくなる。「ばれなければ何をしても良い」という論理はこの変形であり、ここから「他覚されない法律違反は犯罪ではない」というような「盗聴」を合理化するような理屈も出てくるのではなかろうか。

他人が怖くない消費者の心理

後者の消費者イデオロギーとはどういうものか。
消費者は万能な貨幣の所有者であって、彼が他者と対置するものは「迷惑をかけるかもしれない不安な自己」ではなく「万能な貨幣」を対置させるのである。彼は他者に対して「神様」としての「お客様」として立ち現れる。彼が所有している貨幣がどのような経緯で(いかなる労苦の贖いとして)入手されたか、「お客様」に問う者はなく、自ら問いもせずに「お客様」として「満足」を要求する。(以下、消費者とも「お客様」とも。)

孤立しリスクを背負う「お客様」

構造改革規制緩和」以前は、「お客様」はさまざまな業界規制・企業規制によって守られていたから、「選択の自由」によって自らを危険物や粗悪物、詐欺にさらすことはあまりなかった(建前的には)。ところが、「規制緩和」によって「選択の自由」を迫られると、そこには「自己責任」が厳しく付きまとい・自らに跳ね返ってくることになった。高い金を払って地物の野菜を買うか、どんな農薬が残っているか分からない輸入物の野菜を買うかは「お客様」の自由なのである。粗悪品や手抜きはローンを組んだその後に摘発される仕組みである。
生活者であるはずの消費者はこうして、あたかも投資家・投機屋のようなリスクを常に背負うことになった。

凶暴化してたたかう「お客様」

しかし、このようなリスクが現実化し・実際の被害にあうとなると、それは消費者としても等価交換でない・「割に合わない」事態であることが意識されるし、「損を回避すべき」「損を取り戻すべき」主体として自己は意識されるし、不当に(不等に)傷ついた「お客様」は正当(正等)かそれ以上に回復されなければならないという意識が起こるであろう。
この「神様」「お客様」としての「消費者」意識の論理形式(必ず満足させられるべき主体・満足させられないと傷つき怒る主体)が「医療」や「教育」など、従来市場原理とは異なる原理で動作してきた社会保障等の分野にまで、「人権」「主権者」「納税者」「住民」などの権利的足場を得て拡大してきた。これは「医療(医師)」「教育(教師)」そして「地域のオトナ」が前提してきたパターナリズム(父権主義)的な人間関係が崩壊してきたことが、ためられた反動を大きくしているように思える。

お客様と「話し合う」余地はない

「お客様」は料金と引き換えにひたすら「満足」を与えられる役回りであるから、こうした「お客様」には「共同」したり「協力し合う」ようなチャンネルは存在しない。傷ついた「お客様」はひたすら要求し、サービス提供者はひたすらサービスを与えねばならない。
「お客様」は「自己愛的幼児性」をのみ発揮する人格なのである。「お客様」はまた「無視」されたり「軽視」されたりすることを極端に・執念深く嫌う。ちなみにこの幼児に対する役割は「献身的な親」である。


「お客様」の自己愛的幼児性を助長するもの

お客様の自己愛的幼児性を助長するものは何か。

  • 苛烈な競争にさらされ、生き残りをかけて「お客様」を獲得したい企業や事業者である
  • 「お客様」自身が貧乏になって、「お客様」でなくなってしまいそうな不安である
  • 「お客様」自身が貧乏になって、負担感が増したとき、得られるべき満足も増大し、わずかの瑕疵も許せない気分になる(傷つきやすくなる)
  • 貨幣所有者こそが「お客様」であるという拝金主義的風潮
  • 学校や教育委員会などをターゲットに繰り返し強調される「責任」
拝金主義と負担感の助長

例えば、テレビのクイズなどで、せいぜい月給相当の賞金だったのが、アルバイト・パートの年収ほどの賞金だったり、ちょっとした思い付きが数十時間の労働報酬に相当する「謝礼」になってきている。またお笑いバラエティーでも、ゲームの勝者にやはり月収相当の「賞金」が与えられる。サッカーではくじが売られ、「まじめ」さや「地道な努力」の結果であるはずの数十万円が、テレビを観ていると30分〜60分番組で毎日のように笑い飛ばされる。
求められるのは地道さではなく「売れる」こと「ウケる」こと、運が良いこと、投機などのように「機を見るに敏なこと」であると受け止められる。「地道」さは軽視され・蔑視され・否定される。
「お金」が軽く扱われているというよりは「お金」を手に入れるプロセスが軽視され、「お金」はどんな手段であっても手に入れたいものとして取り扱われるのだから、労働が貶められれば押しとめられるほど「拝金主義」が浮刻される。
消費の現実の世界では、増税所得税減税の廃止・受益者負担とその増大があり、負担感は大きくなった。今までなかった税を払い、サラリーマンの医療費などは100%、50%の値上げである。

1975年 テレビ「パネルクイズ アタック25」放送開始
1990年よりパネル1枚1万円
1989年消費税導入 
1994年 テレビ「開運!なんでも鑑定団」放送開始
1996年 テレビ「さんまのSUPERからくりテレビ」放送開始
投稿ビデオが採用されると〜30万円
1997年消費税5%に
失われた10年の始まり─
テレビ「踊る!さんま御殿」放送開始
投稿が採用されると5万円+α
1998年入院食事代の一部保険外し 
1999年横浜市立大学で患者取り違え事故  
2000年診療報酬マイナス改定テレビ「クイズ$ミリオネア」放送開始
  スポーツ振興くじ toto」開始
2001年小泉政権発足 
 東京女子医大で人工心肺装置の操作ミスによる医療事故  
2002年慈恵医大青戸病院で腹腔鏡手術事故  
2003年サラリーマンの患者負担が3割にアップ  
 フジテレビ「白い巨塔」放送  
 病院ランキング本の出版ブーム  
2005年個人情報保護法が施行 
 看護雑誌で暴力特集多数  
2006年セカンドオピニオンに初の診療報酬  
 医療制度改革法案、成立へ  
出典:【日経メディカル6月号特集連動企画】患者はなぜ怒るのか(現状編)(無料なれど会員制)
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/200606/500682.html
の記事末尾の表をもとに加筆。税や年金の問題など、収集・収載すると膨大なので少しだけ。
テレビは毎週放送されることに注意。
表の原題は「“怒れる患者”は生まれるべくして生まれた」

いくつかの例

給食費未払問題

2007年1月26日付・読売社説
[学校給食費]「『払えるのに払わない』無責任さ]
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070125ig90.htm
 文部科学省が、初めて全国の国公私立小・中学校を対象に実態調査を行った。
 給食費未納の児童・生徒がいる学校は2005年度、全体の44%にも上っていた。未納の子どもの数は9万9000人で、ほぼ100人に1人の割合で保護者が給食費を払っていなかった。未納総額は22億3000万円だった。
 最大の問題は、不払いの理由だ。
「保護者としての責任感や規範意識」の欠如と受け止める学校が60%にも達し、「保護者の経済的な問題」の33%を大きく上回った。「払えるのに払わない」。そんな保護者が圧倒的に多いようだ。
 学校給食法は、給食費を「保護者の負担とする」と定めている。通常、小学生は3900円、中学生なら4500円ほどの給食費を、保護者が毎月、口座引き落としや集金袋を子どもに託す方法で学校側に支払っている。
 ところが、一部に学校や自治体からの支払い要請にも応じず、不払いを決め込む保護者がいる。
……

給食費を払わない親の言い分として「義務教育だから払う必要はない」などがある。
(別のニュース多数)

これも「義務教育だから」という論理で自らを「お客様」視するもの。(個人的には、学校給食・病院給食・介護施設の給食はそれぞれ理由は異なるがいずれも無償にすべきと思う。)

毎日新聞 2007年1月26日 http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20070126ddm005070154000c.html

2006/06/26 中国新聞社説 http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh200606260055.html
昨年も取上げられている。


医療

日経メディカル(インターネット記事は無料会員制)の2006年の記事によれば、医師の患者に対する医療施設内での権威は薄くなり、患者によっては崩壊している。
院内で騒ぐ患者に注意すれば居直られるし、「怒りが暴力に発展するケースもある。ある大学病院で、看護師に対してアンケート調査を行ったところ、過去1年間に患者から暴力を受けた経験があると答えた看護師が67.6%に上った。なんと3人に2人が、患者から殴られる、大声で怒鳴られる、あるいはセクハラの被害を被っていたのだ。」という。
ネットでの記事では、その原因として、患者が患者(patient 我慢する人)ではなく「医療消費者」になったこと、医療事故の被害がマスコミなどでも大きく取上げられたこと、健康保険の制度改定により患者の負担が増大したこと、従来のパターナリズムによって患者の声が抑圧されてきたことの反動、などが示唆されている。



消費社会における医師患者関係論 ──医療消費者としての患者── PDFファイル

医師と患者の信頼関係の破綻によるトラブルは増加傾向にあるといわれる。医師不信の背景には,医療が「サービス」業へと変貌し,患者が医療消費者と化したことが背景にある。そして,医療不信を招く大きな原因の一つには,患者が期待する「サービス」に対する歯科医師側の認識不足が挙げられる。消費社会の影響は医療も免れない。日本では,患者は父権主義の精神に期待しつつも消費社会の進展により次第に医療消費者に変容しつつある。消費社会では消費に慣れた医療消費者である患者を診る以上,医師は患者の意思へ対する配慮が求められる。

医療消費者と医師とのコミュニケーション PDF 全159p
医師と医療消費者との間には認識や意図、相互に持つ相互の像にギャップがある、という調査報告。

拙記 幼児化する市民
『金さえ出せば、望み通りに医者が献身してくれて、病気も治してもらえる』といった患者の幼児的な自己愛的欲求をかなえる関係

学校への「いちゃもん」(言いがかり・因縁)

NHKクローズアップ現代07/02/01(木)放送「要求する親 問われる教師〜すれ違う教育現場〜」に関する解説

折出健二氏(国立大学法人愛知教育大学
http://homepage3.nifty.com/empowerment/
なにが、どう問題なのでしょうか。
1つは、格差社会化や将来不安の入混じった不安定社会のまっただ中で、親は、公的機関の象徴とも言える学校にしか不満や不利益を言い出せないほどに追い込まれている
2つめに、「自己責任」「自助努力」観念、いや社会的なイデオロギー家族にまで浸透し、それが「わが子」中心主義の見方を一層助長している
親も隣近所で「井戸端会議」風に愚痴をしゃべり合ってストレスを解消したり、手近な良い解決策を知ったりすることがきわめて薄くなっている。
3つめに、少子化傾向の中で、「わが子」の「問題」行動を言われることは、親である自分の自己否定評価と同じ、という感覚が強まっている。たとえば、「オタクの子どもがいじめた」「あなたのしつけは、虐待ではないのか」などには、関係の親御さんはものすごく過敏に反応し、教師に、児童相談所の職員に、激しい怒りをぶつける例が最近目立っている。
4つめに、一部の、ただ視聴率を上げるための番組作りで教師や学校をバッシングして「ココマデ教師は堕ちている」といわんばかりの映像を構成して放映するメデイアの影響も大きい。「あるある」問題のねつ造ほどではないにしても、初めから教師をたたく意図での番組構成は、視聴者の感覚に訴えるメディアの特性を過度に悪用しているともいえる。
いまや教師の絶対的権威を掲げる社会はもう完全に終わっているとしても、これほどまでに、教師を攻撃対象とする、保護者−教師関係というのは、過去には見られなかったことです。いったいいま地域コミュニティに何が起きているのか。ここを冷静に分析していく必要があります。

拙記 「学校への無理難題要求」テーマに大阪大の小野田教授が講演 2006/08