個人主義・刹那主義・直感主義>>個性?


土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える』岩波ブックレット№633 2004年9月
は、ブックレットであるからあれこれのテーゼの裏づけがどうなっているかは読者が調査しなければならない。私には書いてあることを全てそのまま鵜呑みにして良いのかどうか、よくわからない。しかし、述べている観察や推測は説得的だと思う。
ただ一方で、現状の拾い上げられた現象の説明は「ひとつの説」として説得力があると思うが、今のどのような教育や生活がその現象を成り立たせているのかという構造、なぜそのようになってしまったのかという歴史の紹介や論証が不足しているので、あくまで「ひとつの見方・考え方、アイデア」に過ぎないのではないかという疑念と印象を拭えなかった。
それにしても読んでいて胸をえぐるのは子どもたちの置かれている心理環境の痛ましさである。
やっぱり、引っかかるのは、あれこれの事象を説明するのに「個性化の圧力」というエーテルを想定すると、面白く説明できるが、「個性化の圧力」そのものは浜崎あゆみとスマップの歌くらいしか言及されていない。それとも私の読み落としか?
「個性」「人格」「思春期」「発達」などをきちんと定義して十分に踏まえた上での議論が必要だと思う。
追記。3/17
土井氏の言う「個性」とは、「自覚する差異」と「アイデンティティ」「自己感覚」のゴタまぜのようである。
差異と同一の人格における現象を論じたものとしては面白いが、発達の主体・基体としての人格について語られていない。だから、個性について「生かす」ではなく「伸ばす」とか言われてもさっぱりピンとこないのである。
さらに、「個性を伸ばす」という捉え方もおかしい。伸ばすのは能力ではないのか。彼の言う個性は関係性の中の差異性にすぎないのだから、それを「伸ばす」とするとやたら外面が「個性」的な人物を要請しているように思える。

1 親密圏の重さ、公共圏の軽さ──子どもの事件から見えるもの

1. 親密圏における過剰な配慮

 子ども・若者においては、親密圏の破綻を恐れて相互に干渉せず・詮索しない。感情を抑制して自分を演出しあう、相互に違和感が顕在化しようよう配慮しあう関係性が支配的である。親密圏に強い不安を抱きながらこれに依存している。

2. 公共圏における他者の不在

 少年犯罪(強盗・ひったくり・傷害)において、少年たちにとって他者(被害者)がいない。他者はモノ視・物件視・無機的環境視されている。公共の場所にも「他者」がいないので傍若無人な振る舞いをしても平気である。

3. 「つながり」に強迫された日常

 くり返しだが、親密圏の維持には過剰とも言える配慮をし、親密圏の外には他者不在。そこで対立の回避のテクニックや表現が発達し・身につけられ、逸脱者の排除といじめが発生する。逸脱者は必ずしも固定せず流動的である。

 お互いの対立点が顕在化してしまうことは、過剰なほどの配慮によって表面的に馴れ合っているだけの「やさしい関係」にとって大きな脅威です。人間関係の軋轢は、非常に耐えがたいものと感じられます。だから、摩擦を表面化させない危ういメッセージは、サイレント・コミュニケーションのチャンネルへと追いやられていくのです。相手にいくら違和感を覚えても、面と向かって怒りを示すことはできず、したがって取っ組み合いの喧嘩のようにアクティングアウトな行為を通じてその違和感が解消されることもなく、迂回したチャンネルでサイレントなさや当てが展開されていくのです。大人たちから見て、いじめが陰湿的に見えるのはそのためです。
 こうしてどもたちは、いじめて笑い、いじめられて笑うという独特の作法を身につけます。「知って知らぬふり」というのは、ほかならぬ儀礼的な無関心です。いどめの当事者たちも、の傍観者たちも、違和感などまるで存在しないかのように、協力して演じあっているのです。そして、お互いに「遊びモード」に乗り切り、いわば軽い人間関係を演出することで、軋轢の重さから逃れようとしているのです。いじめと遊びの区別がつきにくいのは、よくいわれるように罪悪感の欠如によって両者が混同されているからではなく、むしろ意図的に「遊び」というラップでいじめを包んでいるからなのです。

 子どもたちの日常世界は互いに交通不能に陥っている多数のせまい小宇宙から構成されています。そのため、個々の仲良しグループが抱える問題を学校という公共圏へと開いていくチャンネルを持ちえません。

2 内閉化する「個性」への憧憬──オンリーワンへの強迫観念──

1. 生来的な属性としての「個性」

 最近の若者たちが価値を見出すのは、素のままの存在感である。彼等の切望する個性は社会の中で作り上げるものではなく、生得的なものだと感受されている。
 そして自分の本質がよくわからないとすれば、自分の内部に潜んでいるはずの可能性に気づいていないからであって、大切なのはそれを見出して開花させることだと思われている。
 個性は人間関係の函数としてではなくキャラ=固有の実在的属性だと感受されている。または神秘化されている。

現代の若者たちが目指しているのは、これから自己を構築していくことではなく、元来あるはずの自己を探索していくことなのです。

子ども・青年たちにおいて人格・個性の社会化のプロセス、社会における人格形成の過程・個性化の過程のリアリティが失われているのである。

2. 内発的衝動を重視する子どもたち

R. N. ベラーが『心の習慣』で指摘している「表出的個人主義」が広がっている。
可否、良否、規範的判断や評価の基準が社会的・客観的なのもの〔超越的な善悪の基準〕ではなく生理的感覚として感受されるものか、生理的感覚〔「ムカつく」、「イイ感じ」など〕で表現される主観的・直感的なものになっている。外的な理性を受け付けない(規範に関する指導や会話が成立しない)個人主義が広がっている。
外的規範はそれだけでは規範としての意味は持たず、表出や表出の結果に際してのfeelingによってfeelingに依存した意味が付与される。

身体感覚への自己意識の後退

こうして、若者たちにとって重要なのは自らが考える言葉・ロゴスの社会的説明力の強さではなく、自らが感じる内発的な衝動の切実さである。コトバが軽視されるため、自らの身体的な感覚を重視し、心や感情の動きといったものも、その身体感覚と同質なものとして捉える傾向を強めている。

学校の授業がよくわからなくて他いくつだと感じるなら、じっと我慢をして関に座った生徒を演じ続けるよりも、教室をうろついたりお喋りをしたりしたほうが、よほど自分らしいふるまいだということになるのでしょう。学校に行くこと字体に何ら積極的な異議を見出せないと感じるのなら、……別の居場所を探したほうが、よほど自分を大切にしていると思えることになるのでしょう。

こうして、自己意識はコトバを拒否したまま思想ではなく、直感・感覚、身体的感覚に後退して行く。思想的裏づけのない感覚は持続的ではないから自己意識・自己感覚は、内発的ではあっても衝動にのみ依拠した「いま」の刹那的なものとなり、持続性と統合性を維持することが困難になる。ある場面ではやさしい子どもが同級生や教師、身も知らぬ者に些細な理由で残虐な暴力を振るうという事象が発生していることも、こうした自己意識からは説明しやすい。

自己統合の困難と断片化

綿密な取材に基づく村上龍ラブ&ポップ』の主人公のように、わずかな時間でも自己を保持できない感覚は、近年少女たちが多く持ち歩いている「濃密手帳」にも良く反映されている。

 濃密手帳とは、微細な文字で埋め尽くされたスケジュール帳のことです。帳面の上では、空白の時間は文字通り真っ白な空白となって可視化されてしまいます。彼女たちは、この空白の時間を極度に恐れて、細かな文字で紙面の全体を隙間なく埋めつくすのです。ここには、「いま」に対する切羽つまった感覚がよく表れています。

この濃密手帳にはしたがって、これからの予定よりも時々の出来事を日記のように書き連ねている。細かな・文字で埋め尽くすことによって、自己の生のリアリティを定着させようとしているのか。

 こうした「症状」は離人症とか解離性人格障害とかいうものとよく似ているのではないか。次から次へと別々の時間がやってきては流れていき、それらの場面を貫いて自己を維持することができないので、これらの諸場面に全て一から対応しなければならないので大変疲れてしまう。慣れていない仕事を外から次々に与えられるときの気持ちに似ている。落ち着いている暇もない。こういうときわれわれは休憩して自己を取り戻すのだが、取り戻す自己が内には刹那的な感覚しかない子どもたちが「濃密手帳」を書くのではないか。木村敏や彼の著作物に引用されている統合失調症の関連文献を参照。或いは蒙い分野だが自閉症などの文献。
不易な自己こそが個性であるはずだという確信を持つ一方で、個性の根拠が内発的な衝動や実感であるという思い込みのためにかえって自己がわからなくなっているのである。

3. 「自分らしさ」への焦燥

さて、ここからが「なぜこうなったのか」ということの説明が増えてくる。私にはどれだけの根拠があるものか・具体的に何を指してそう言えるのかわからないところがある。
下のテーゼ群はそれなりの根拠があって列挙されているのであろうが、本当にそうなのか。
彼らと彼らの内面を統合するためには強力な外的統制と歴史感覚の覚醒もしくは注入が必要であると読めないだろうか。筆者はもしかしてそれを期待してはいないだろうか。つまり国家主義ファシズムを筆者は要請しているのではあるまいか。それとも国家主義ファシズムへの警鐘を打ち鳴らしているのか。土井氏が「心のノート」を礼賛していないか、国家主義による公共圏の復権・再構築を期待していないか、不安である。
或いはまた、「《内面に目を向ける余裕が生まれた》《のに》《現実の世界には感動の素材がなくなっていた》」という、よく読めば意味がわからないテーゼもある。煽っているのは本書かもしれない。
《肯定》《but》《否定》という修辞法には書く側も気をつけたほうがよい。たとえば「仕事で僕は上司にほめられた。なのに小泉首相を悪く言うものがいる」。「石原都知事が当選した。なのにイラクではインスタントラーメンすら売っていない」。いずれも直接には意味が通らない。
いずれにしても本書では言及不足だと思う。

個性化を強迫する社会
  1. 現代の子どもたちは何とかして個性的でありたいと願い、そうあらねばならないと焦っている。
  2. 本当の自分はもっと輝いているはずだと思い込もうと必死になっている。
  3. 「個性的な存在たることに究極の価値を置くこのような社会的圧力の下で」、彼らは、自己の深遠に隠されているはず個性を見つけ出そうと焦っている。“個性的であること”は彼らの間ではもはや社会的規範の一つである。
  4. “個性的であらねばならないという規範がまず社会の側にあって、それを内面化させられている”。だからそうなりたいと人は切実に願う。
  5. 内閉的な感受性を強調するようなかたちで、現在の社会化が進んでいる。
  6. 社会化に意義を認めないようなその新たな社会規範に、いやおうなく拘束され社会化されている。
歴史感覚の欠如
  1. 個性的な存在たることに価値を見出そうとする傾向は、歴史感覚の欠如と密接に関わっている
  2. 近代化の過程では強力に自覚されていた歴史感覚が、昨今は急速に失われてきている。
  3. 近代化の終了した現代に生まれ育った若者は社会変動をやめてしまった時代に生きているので、歴史を実感できない。
  4. 若者にとって歴史は無く、現瞬間が世界の全てであり、「世界の中心」を彼らは生きている。
  5. 若者たちの特徴である自己の内面的世界への傾倒は、彼等の歴史感覚の欠如の反映である。
  6. 歴史に対する想像力の欠如は、社会に対するリアリティの衰退である。
  7. 公共圏における他者との関係性を支えるための共通基盤が存在しえなくなっている。
  8. 「近年の日本人はさまざまなスポーツ・イベントに対して、あたかもそこが「世界の中心」であるかのように、神経症的に一瞬の感動を追い求める傾向を強めています。……「終わりなき日常」に根ざしたイベントと化しています」。
  9. 「現在は、あらゆるものが予期化され、未来も現在とさほど変わらぬまま続いていくものと思えてしまいます」。人はイベントの後には再び「日常」が舞い戻ってくることを知っている。だからイベントに一瞬の感動を求めることに「強迫神経症的」になっている。
  10. 貧しさが克服され、自己の内面世界へと関心を向ける余裕が生まれたのに、現実世界には感動の素材がなくなっている。だから感動ノイローゼになっている。
自分らしさ=個性=欲望
  1. 飽和した物質的な欲望が、個性の探求という新たな欲望によって代替されはじめている。
  2. 個性とは本来相対的・関係的なものであるにもかかわらず、若者たちにあっては絶対的なもの・自存的なものとして感受されている。(内閉的個性志向)
  3. 自己を測る社会的な視座がないので個性への欲望だけが無限に肥大し続ける。だから「自分らしさ」の実現にはゴールが無くいつでも・いつまでも未達成である。
  4. 内閉的個性志向という悪循環の「文化規範のメカニズムが、現在の日本には作動している」。

社会は個性化を強迫しているか?

まず、「個性化を強迫する社会」「個性的な存在たることに究極の価値を置くこのような社会的圧力」とは何を以ってそう言えるのだろうか。スマップや浜崎あゆみが強烈な社会的な圧力であるのだろうか。
同様に、「内閉的な感受性を強調するようなかたちで、現在の社会化が進んでいる」というが、この事実がわからない。住環境が人工的になり、体を動かす遊び場が少なくなり、テレビゲームによってギャングエイジが消滅したことなどが、子どもの「人間関係を希薄化する」大きな生育環境上の変化であったとしても、それだけでは「個性化を煽る」ことにはならないはずだ。また、子どもたちが競争や消費生活や核家族によって孤立化し(「子どもの孤立化」という事態は私にも容易に受け容れられる)、コミュニケーションの機械と能力とが減ったり衰退したとしても、そのことでの思春期の困難は増大するかもしれないが、「個性化が強迫されている」とまでは言えないのではないか。

ところで「個性」とは何を指しているのか?

ところで、筆者土井氏は「社会が個性を強迫する」というが、社会が求めているのはこうした「内閉志向的個性」なのだろうか。それとも「社会化志向」の個性だと言うのだろうか。
ひとつには、土井氏の言う「個性」が「自己感覚」「自我」「自我像」、「アイデンティティ」「言語的自己認識と人格とを伴った自己像」「あるべき自己像」その他のどのレベルでの話なのか、わからないのと、それ以前に個性と自我とを「=」で結ぶか混同するかしているのではないかと思う。従来の思春期・青年期の課題としての自我・自己像の確立ということと、思春期以前の子どもたちの自己感覚がおかしいということとはずいぶん質の異なるものではないのだろうか。これらを同一の土俵で論じて良いのか。煽っているのは筆者ではないのか。
もうひとつ。私は教育の現場のことは殆ど知らないが、この間教育で言われている「個性」とは能力主義的学力競争・学歴競争の直線的な評価の結果の言い換えだと思う。つまり「序列」として結果せしめた「学力」の「差異」を「個性」と呼ばせているのである。
こうした、受験競争や学歴競争を「個性を強迫」というのなら、そこには競争に適合した、まさに「勝ち組」しか自己を見出すことはできまい。そして「学校の勉強」とその延長線の上には自己も個性も見いだせなくて、「きっとどこかに知らない自分があるはずだ」と子どもたちが焦っている、というのならわかる。でも、それならそのことを「個性化の強迫」とは表現しはすまい。

「歴史感覚」は希薄化しているのか?
歴史感覚の希薄化=個性強迫=刹那主義と言えるのか?

自己意識(自我?)が子どもの孤立化によって主観主義的になってしまいがちであり、自我の確立・自己感覚が危うくなり「濃密手帳」などの現象を惹起している、ということはそうなのかもしれない。しかし、それがそのまま「個性的な存在たることに価値を見出そうとする傾向」にはならないのではないか。
また、「社会による個性の強迫」もしくは「個人の個性への焦り」は「歴史感覚の欠如と密接に関わっている」としたら、どのように関わっているのか。世界と歴史が制限され・停滞していた中世の停滞(?)時期には誰もが焦ってしまっていたのだろうか? 近代以前にはそういうことはなくて、近代以降の資本主義に固有だとしても、経済の停滞時期には個人主義がはびこるのか? そうだとすれば、それはなぜなのか。社会が変化しないように映るから個人主義になってしまうのか。いったい誰が個性を問うているといのうか。 
そもそも、「近代化の過程では強力に自覚されていた歴史感覚」というのがわからない。「近代化の終了した現代に生まれ育った若者は社会変動をやめてしまった時代に生きているので、歴史を実感できない 」ってホント? どうも復古的なニホイがする。侵略戦争でも起こして、隣の国を真っ黒に塗りつぶし、塗りつぶした面が広がっていくのを見て「歴史を実感」することで子どもたちは解放されはしないし、むしろそういう社会では「個性」が圧殺されていたのであるから、一概に「歴史感覚の欠如」が子どもたちの自我をおかしくしているといようには言えないはずだ。

思春期には誰でも内省的になる。そして恋愛も。

古典的青年像から言えば、思春期には身体的変化から自己・自我に目覚め、内省的になる。進路の選択や恋愛感情にともなって、自分とは何か・自己の長所や短所や個性は何だろうか、どうすれば憧れの人に認めてもらえるか、心を砕くものである。 そうしたときなら、「若者にとって歴史は無く、現瞬間が世界の全てであり、「世界の中心」を彼らは生きている。 若者たちの特徴である自己の内面的世界への傾倒は、彼等の歴史感覚の欠如の反映である。歴史に対する想像力の欠如は、社会に対するリアリティの衰退である。 」などと言うことはできるし、それは今に始まったことではなく思春期〜青年期に自我が確立するような社会になってから誰もが経験したことではなかろうか。

見え透いた未来と磐石な公共圏は社会の民主化の問題

公共圏における他者との関係性を支えるための共通基盤が存在しえなくなっていて、 「現在は、あらゆるものが予期化され、未来も現在とさほど変わらぬまま続いていくものと思えてしまいます」、と筆者は言う。
公共心が希薄になっているということと、未来が見え透いてしまっているということとは、さしあたり別のことである。これから子どもたちや青年が出て行く公共としての社会、ということなら同一のことであると言える。

《予期化とは何を指すか》

「予期化され未来も現在とさほど変わらない」と思えると言うが、何を以って「あらゆるものが予期化され」というのか。予期化されたような気がするというのであれば、「見え透いている」ということである。そうでなく「予期化」されていると言うのだろうか。

《見え透いた未来》

未来が見え透いてしまって(予期化)つまらない、退屈だ、歴史や社会の実感がない。だから感動を求める・だから内面世界に目が向く・だから個性が強迫されている、というが何が「だから」なのか説明が無い。
自分にとって見え透いているとは、その物事に自分が参画する余地が無いか、自分が参画することが織り込み済みであるということがわかったとき・わかっているときに、われわれは「見え透いている」という。
未来や社会が見え透いてしまっていると感じられるのは、将来の主権者たる青年・子どもたちがまるごと社会に必要とされ・活かされ、社会に参画できる展望が見えないからである。それまでの規則でがんじがらめの管理教育のもとで、声を上げても仕方がない・競争に適合的でなければ市民権が得られない、教師に迎合しないと冷遇されるなどの体験を積み重ねてきたからではないか。そして、自分の「個性」では体育コースや商業コースでしかない、園芸コースでしかないという割り振りによって自分の将来が見え透いてしまう、運良く就職できても中小企業では将来が見え透いてしまうからではないか。

《公共圏を破壊しているのは社会の支配層》

公共圏を破壊しているのは、オトナである。「目に映る」オトナは「目に余る」。罪も無い市民を殺戮する戦争、懸命に働く労働者をリストラする企業、不良債権だからと中小企業の息の根を止める銀行・金融庁、違法な株取引やM&Aを礼賛する風潮、農業をバカにする政治、カネのあるなしで差別する福祉や医療。そしてテストや管理で個性を押し付ける教育制度。こんな公共「関係ない」と思いたくなる。
日常の電車の中やコンビニの前での公共性について、若者にマナーが無いということの説明は説得的だが、真に傍若無人なのは小泉構造改革だ。貧乏な老人を介護施設から蹴り出しておいて、老人に親切にしろなどと言えようか。力のあるもの・腕力のあるもの・群れの力がこんな社会で傍若無人に振舞うのは或る意味当たり前である。それがそれが社会の原理原則なのだから
ちょっと外れすぎましたか。

《感動ノイローゼはなぜ》

そして公共圏の希薄化ということと、「終わりなき日常」ということが同一であってもそうでなくても、「だからイベントに一瞬の感動を求めることに「強迫神経症的」になっている。 貧しさが克服され、自己の内面世界へと関心を向ける余裕が生まれたのに、現実世界には感動の素材がなくなっている。だから感動ノイローゼになっている。」などとつなげるのは飛躍がありすぎる。退屈だから感動を求めるということと、感動ノイローゼになるということの間には超えなければならない何か、つなげるための媒体が必要なはずだ。

《自分らしさ=個性=欲望》

私にはこの表題の「イコール」がすべて疑問である。
「自分らしさ」と「個性」とはぴったりとは重ならない概念だ。
個性が若者たちにあっては絶対的なもの・自存的なものとして感受されているのだとしても、「個性への欲望」がこれによって発生するといえるのか。
「内閉的個性志向という悪循環の文化規範のメカニズムが、現在の日本には作動している」とまで書かれると、これは独断のオンパレード、煽り、呪文ではないかと思う。いったい何なのか《文化規範のメカニズム》とは。

《個性は関係性の函数に過ぎないか》

個性が人間関係の中で形成されるし現れるというのは、そういう面は強い・大きいと思う。だが、かつてアルチュセールが言ったような(?)、個性というものが関係の交点に過ぎない、いわば幻想に過ぎないのかというと、そうではないと思う。対人的な特性だけではなく、労働に対する態度、課題に対する取り組み方、対物・対事件、などでやはり個性というものが現れてくる。筆者は「個性」というものについてあまり言及していないので、個性が関係性に解消されるような単純な理解をしていないか疑問が残る。もしそうであれば、外からある種の関係性を押し付けて嵌め込んでしまえばちゃんとした個性が(それが一様に同じ個性であったとしても)得られて、重い親密圏の中での気苦労がなくなるという論法に道を開いてしまうことになる。
もっと、子どもの年齢に応じた発達を踏まえた議論にしていかないと、変な道徳教育や統制を呼び込んでしまうことになると思う。

この章は疑問だらけであった。

三 優しい関係のプライオリティー──強まる自己承認欲求のはてに──

1. 「自分らしさ」の脆弱な根拠

先に述べたように、内閉的な個性志向によっては主観主義的思い込みしか得られない。よって子どもたちは周囲の身近な人間からの絶えざる承認を必要とするようになる。こうして、彼らは脅迫的な不安感を打ち消し、刹那の安心を得るために、たとえ表層的ではあっても、むしろ互いに傷つけあわない程度に他者につながっていなければならないのである。
自らを見つめ自らについての思い込みを身近な人に承認してもらい続けることを要求する。それは社会化に対するリアリティを失ったから「まなざし」が内向化し、視野が内に向いているから人間関係から安定性がなくなっているからである。
しかし、往年の子どもたちが孤独にも強く孤高であることも可能だったのは、「自己評価に客観的な色彩を与えてくれる社会的な根拠を内面化していたから」である。
最近は親から受容されていない、肯定されていないと感じる子どもが増えている。それは、子どもの側の要求水準と期待値の方が高まったからであって、親がそれについてこれていないのだ。

ひと昔風に言うと「ネクラ」になってきているということらしい。それが歴史感覚の喪失や個性化の強要、「ネクラ」になる余裕が原因であるということを土井氏は言っていることは前章で見た。「ネクラ」になると人間関係も不安定になるらしい。一方昔の子どもは、社会的な価値根拠を内面化していたという。だから、ネクラになっても不安にはならなかったのだと。
繰り返しになるが、内閉的個性志向の原因・要因が説得的でない。
そのことで人間関係が不安定になるというもの説明不足。
昔の子どもの「客観的……社会的な根拠」とは何か。説明がない。親のことなのか。
客観的な社会的な価値源泉が親かというとそうでもない。親から殴られても「愛されていないのではないか」などと杞憂する余裕がなかったのだ、という。

2. 肥大化した自我による共依存

非言語的・没言語的で衝動的な感覚の共有による親密な関係においては、実質的には他者が不在で、異質な要素が含まれていない。だから、その関係の根拠に客観的なもの・社会的なものがないので、不安定である。不安定な関係を維持しようとするので、起きてしまう対立が顕在化しないように異常な気遣いが必要である。
このように配慮しあう親密圏が不安定な自己を支えているので、軋轢が生じると自分が全否定されたかのようなパニックに陥る。こうした人間関係は「共依存」に似ているか同一である。
この共依存の破綻に耐えられないとき、その関係性から撤退し「引きこもり」が発生する。あるいは満たされなくなった自己承認に対する欲求不満を犯罪行為によって満たそうとすることもある。自殺する子どもも増えている。

★「個人尊厳行きすぎて、生徒が殺し合い」

3. 純粋な関係がはらむパラドクス

もともと日本には、お互いの対立を認めあった上でその解決をめざすという文化は浸透しておらず、むしろ対立そのものを存在しなかったことにする文化の方が一般的だったといえます。

また昔は価値観や欲求も多義的・多様でなかったので話もしやすかったが、今は欲求や関心対象が千差万別になってしまって、理解不能性のほうがクローズアップされてしまう。だから昔より高度なコミュニケーション能力が必要になっている。コミュニケーション能力が衰退してしまったというわけではない。

オトナの人間関係はどのようになっているのか

子どもたちの間に内閉的な個性志向が蔓延しているのはオトナの側のメンタリティの反映である。子どもは社会の鏡である。

 成長の中で徐々に創り上げていくものとしてではなく、生まれ落ちたときからすでに備わっているものとして「個性」をとらえる見方は、近年にわかに注目されるようになってきた「心の教育」にも如実に反映されているようです。たとえば、文部省は、全国の小中学生を対象に道徳教育用の冊子『心のノート』を2002年度から配布していますが、そこには「自分の心に向き合い、本当の私に出会いましょう」といった文言が盛り込まれています。……しかし、私たちは、そのおかしさに早く気づくべきです。……教育……は「個性を生かす」ものではなく、「個性を伸ばす」はずのものだからです。

 大人の側のメンタリティって何やねん、て思た。
この章の前段の、日本人が対立しあいながら話し合って解決していくという文化がなかったというのは、その通りかなと思う。「けじめ」「みそぎ」という外的な儀式に問題を横流ししてそらせてしまい、問題そのものの解決をしないことがある。
『心のノート』の「おかしさ」も、その国家による直接の教材・教育であることや国家主義的内容であることではなく、「個性」を関係性の脈略で捉えていないということに過ぎない。「生かす」「伸ばす」というコトバは括弧でくくられてはいてもそんなに違うようにも思われない。
冒頭に述べたように、個々の現象を説明する仮説、仮説を証する事例、事例の背景にある仮説という論じ方は読んでいてユタユタと流されるようにリアリティがあるように感じられるが、ひとたび「なぜ」と考え始めると「本当かな」と思ってしまう。

関連。同書に言及しておられる職業知識人の人っぽいのですが、名称やお名前がわからないのです。
http://homepage.mac.com/daikou/iblog/C240130565/E2054331898/