▼いじめは必ずしも悪くないとの意識調査結果

いじめは個性=抗いがたい成長のかたち

痛いニュース【いじめ問題】 「いじめ悪くない。いじめるのも個性」(小6)…「いじめる方が悪い」と思う中高生は半数以下
に引用されている
毎日新聞記事「いじめ調査:やる方が「悪い」は半数以下 希薄な罪の意識」2006年11月7日
より抜粋

 いじめがあった時「いじめる方が悪い」と考える子どもが中学、高校で半数にも満たないことが、民間団体の調査で分かった。また、いじめを受けた際に相談できる相手を聞くと「教師」はわずか19%で、「いない」と答えた子どもは2割を超えた。文部科学省の統計報告がいじめ自殺をゼロとしてきた裏で、標的の子が罪の意識の希薄な子どもに追いつめられた上、周囲の大人が十分対処できていない様子が浮かび上がった。【井上英介】

 いじめをなくそうと呼びかけているNPO法人ジェントルハートプロジェクト」(川崎市)が、過去3年間に講演活動で訪れた全国の小学校8校、中学校23校、高校5校の児童生徒約1万3000人を対象としたアンケートの結果をまとめた。

 それによると、「いじめる方が悪いと思うか」と聞かれ、「はい」と答えた小学生は6割を超えた。しかし、中学、高校生は4割台だった。「いじめられても仕方のない子はいるか」の問いに「いいえ」と答えたのは、小学生ではかろうじて半数を超えたが、中学生では4割を切った。

 一方、「いじめはなくせるか」との問いに「はい」と答えた比率は、学年が上になるほど少なくなる。「いじめを相談できる相手」は、「友だち」(56%)が多く、親は39%にとどまった(複数回答)。

 また、「周囲でいじめやそれに類する行為が今までにあった」と考える児童生徒は全体の82%に達し、いじめがまん延している実態がうかがえる。

大雑把に言って、
年齢が高くなればなるほど多くの少年少女たちは誰かを「いじめたくなる」し、どんな「友だち」をいじめたいかという「いじめの対象も明確になってくる」、ということだろう。


道徳心の低下ではない

これは道徳心=抑圧機能が薄らぐので本来の残忍な本性が露顕していくということではない。なぜなら、年齢が高くなればなるほど、抽象的理念・概念の理解力やそれに基づく自制力というのは向上していくからである。年齢が高くなって犬・猫のように退化していくわけではない。
であるにも拘わらず、いじめが悪い・良くないことだとアタマでは理解できていても、アンケートには「悪くない」「個性である」といじめを相対化するような気持ちに引きずり込まれていく・染められていくのは、少年・少女たちにとって、きっとあたかも「いじめたい」という気持ちが、自然現象、もしくは生理現象、心身の発達社会体験の広がりや進路にかかわる評価の深化や決断、もしくは決断の接近に伴って胸の中に座を占めてしまうところの「抗いがたい」がゆえに「自然な」感情であると捉えられているのであろう。


よって、道徳的スローガンを耳に入れる作業の回数を増やしてもあまり効果がないはずだし、母校主義・郷土主義、国家主義的な統制、つまり外部の価値的な何かに帰属しているという意識によっていじめを回避しようとするのは、回避が不可能かどうかわからないけれど、少なくとも本筋とはいえない。
ただし、「いじめ」が許されざることだという、あたりまえのことを茶化さずに、理性にも感性にも訴える学校の取り組みが丁寧になされているかどうか、という反省をするのは無意味なことではない、とは述べておこう。わたくしは学校の実情を知らないので。


誰かをいじめたくなるような成長過程しか提供できない学校・社会の捉えなおし

いじめたくなる、いじめないわけには行かないような気持ち、いじめ中・いじめ後の快感によって、少年少女たちの心の中の不快な何かが一時的に麻痺させられるということ、いじめないとその不快がぬぐえないこと、を明確にしなければならないし、その発生をこそ解消しなければならない。
あるいは、その発生を教育的な「ワザ」(学級経営なのか、授業の指導なのか、きっと集団的な全てなのだろう)によって乗り越えるということが必要である。

隠蔽体質の反省と克服──少年少女、青年たちの立場に立て

いじめの何もかもが学校、学校長の直接の責任とは言い難い現実があるのだと言われればそうだろうとは思う。
しかし、冒頭のニュースからは外れるけれども、いじめを直視しない教育委員会、行政、学校、教師集団の体質は克服されなければならない。いじめを「認知」せず「事件」が発生しない間は、いじめは隠れたまま少年少女たちは卒業していくだけである。正直そうあってほしいだろうし、そうであってきた。
また事件が発生しても教育委員会−教育行政−学校−校長−教師集団−教師個人が認知せず、あるいは隠蔽しようとしてきたことが報道されている。
都合の悪いことに向き合わないことによってやりすごそうとする立場や態度が、なぜなのかという社会学的な詮索は行うべきではあるが、出発点は確かにしなければならない。
その出発点とは、いじめと正面から向かい合わない態度や立場が、少なくとも子どもたち、少年少女、青年たちの立場には立っていないということの批判・自己批判である。


ちょっと多すぎるいじめ許容派

それにしても、いじめについて否定的なアンケートを返す子が半分かそれ以下というのは、許容派が多すぎる。これでは学校の運営単位であるクラスの中で正義派が少数派、場合によっては孤立してしまうことになる。
そうなったとき、「いじめ」のみならず「いじめ許容」までも強い「非難の的」にするような授業や学級運営を想像してしまうが、きっとそれでは別の抑圧を与えることになるだろう。


わたくし自身は教育関係者ではないのでこのくらい。11/8少し書き加え。11/14リンク書き加え。