▼人格と発達

窪島務『現代学校と人格発達──教育の危機か、教育学の危機か』地歴社、1996年
窪島氏は障害児教育とその研究に造詣の深い方である。教育学のほうでは、一頃「人格」ということがさかんに言われた時期があったのだが、最近はあまり言及されないかもしくは「便利」に使用されている印象を受ける。つまり、あまり学会においてあまり明確な定義上の合意がないのではないかと思われる。
「発達」については窪島氏の本書によれば教育学界での位置づけがしっかりしたものになっていないようではあるが、私の中の印象では「人格」よりも明確なもの(『発達』ミネルバ書房という雑誌もあるくらいだから)のように思えるのだが。

なぜ「青年の『発達』」か。

私が「発達」という言葉をBlogの題名に用いたのは半分は偶然である。半分は意図的なものである。
青年にとって、一般的に、自分の置かれている苦難や障害を乗り越えて次のステージに自らを成長させることが課題といえるが、場当たり的に耐性や免疫を身につけたり、目の前にある刺激に反応的に対応能力を長じさせることは「適応」とか「形成」であって、課題の一つではあってもそのことが青年たちの共通の課題・共有できる課題ではなかろう。
「自立」という言葉がある。たしかに青年の課題はひと言でいって「自立」であろう。
「自立」という面では青年は確かに苦境に立たされている。「経済的自立」「職業的自立」/「性的自立」「政治的自立」「思想的自立」など冒頭の「経済的自立」がまずあたかも「物理的・数学的」に困難である。かりに就職口があっても、就労することによって自らが奪われ自分でなくなるほどの職種であったり処遇であったり、いっそ働かないほうが自分で居られると心底実感されるような実態がある。
後半の「性的、政治的、思想的」はさまざまなマスコミや宣伝によって、大抵は商業主義、事大主義、貨幣主義、新自由主義に染められていて、日本の国民的な到達であるはずの憲法基本的人権の諸条項、世界の人類的な到達であるはずの世界人権宣言の諸思想は後景に追いやられるか、もしくは「個人主義」(!)として否定されている。
しかし「自立」に対して「発達」のほうが上位の概念であるというのが第一感である。また世間でよく使われているせいもあってか「自立」という言葉は「適応」というにおいがする。「自立」は青年にとって自分で口にするというより、どうも「オトナ」から若者に対して強いる課題という感じがする。「自立」によって青年に革命的・革新的な地平が開けてくるというよりは、世間と同じ地平に立つという程度の成果しかないような「感じ」がするのである。
そういうわけで「発達」という言葉を用いているのだが、見てきたように今のところ否定的な意義しか述べることができない。

青年の発達の課題

青年が自らを失わず、思い切り自分の能力を伸張し・発揮でき、喜ばしく社会に貢献し、嬉しく結婚をし、楽しく家庭を築き、美しく生きるには、それら全てを全ての青年が手に入れるには根本的には社会仕組みの変革を待たねばならないが、すくなくとも他者に隷従させられず、己を一個の「人格」として内的にも法的にも保持するには、……どうすればよいのだろうか(ガクッ?)。
その前に、「発達」などの概念について少し勉強しておこうと思い、本書の勉強をする。



序章 発達の危機と学校の見なおし
はじめに

今日の教育、学校、授業批判は「伝統的な知識伝達学校」を批判するという形で出現している。しかし、「これまでの」「伝統的」など平板な概念でこれまでの学校や教育を概括することはできない。もっと複雑なものである。
教育危機の理解においても、能力主義的で差別的な教育政策とそれに追随した国民=親の教育要求が共謀してこんにちの学歴社会を形成している、「受験学力」と「ほんものの学力」との区別だけではなく「学力」という概念が誤りであるなどという論も登場してきている。
このような状況下、民主的教育学も教育危機を防げなかった責任の一端を問われていると言えよう。

1.子どもの発達の危機から学校と教育の危機へ
危機の日本的特質

70年代、80年代の子どもの発達の危機、学校・教育の危機は、日本社会の大きな変化に対応している。
1973年のオイルショックを機に、協調的労組をまきこんだ企業の減量経営・経営効率の追求は、労働者を企業への忠誠競争に組織し、「カローシ」「単身赴任」を生み出した。このことにより、育児・教育に顔を出さない父親と子どもにのみ関心を集中させる孤立した母親とを生み出した。これにより家庭という単位内で父親の権威は喪失し、母親は神経症的傾向を強め、子どもたちのさまざまな非行や学校不適応を生じさせる原因となった。企業社会の競争原理を家庭にまで及ぼさせ、家庭の時間や家庭の教育機能を奪いながら、家庭の教育責任を追及するという形が作られている。

子どもの発達の危機のふかまり

72年に中学入学の子どもたちから、低学力と非行が目立ち、非行を繰り返す子どもの特徴として低学力と衝動性が指摘された。低学力が非行の温床であるとも言われた。校内暴力の多発と生徒たちの沈黙・暗黙の共感という事態も生まれた。これらの教育の危機に対して、学力低下とその躓きの時期、「できる」「わかる」の関係、学力論論争などが行われたが、この時期の子どもの発達の危機の主たる責任は、能力主義的・国家主義的な教育支配と生活破壊に求められた。

70年代の教育に於ける人格疎外

人格の二義性(川合章)
①身体、感情、認識および集団・人間関係をつくる能力などの統一体として構造的に捉える必要がある。
②さまざまな心理的諸機能を自己意識において統一する自我機能・統覚機能としての人格

70年代の教育における人格疎外は、学力と人格の分裂、できることとわかることの乖離、体と認識のアンバランスな発達、公と私の対立などに特徴的にあらわれており、その分裂,疎外状況をいかに統一、克服するかという問題意識が民主的人格の形成論の展開を必然的なものとしたのである。

坂元忠芳は川合章を受け、基本的な方向として

学力・教養から人格へ学力を回復していくことが人間性を回復することである
人格から学力・教養へ非行を克服することが人間性の回復であり、学習意欲の回復である。
を提起し、この発達段階・人格形成に即して理論化すべきであるとした。

しかしながら、この後の学力論の展開の中で、学力の回復や形成と人格の発達の関係については深められないまま、実践的には反復訓練を中心とする直線的・短絡的な学力回復の取り組みが課題となってしまい、坂元の提起した理論化の課題は半ば放棄されてしまった。

80年代の子どもの状況

川合章によれば、80年代初めに親たちには子育ての自信が奪われてしまい、返す学校への期待を政府・財界は能力主義の教育政策に組み込んだ。このことが80年代の低学力問題の基底になっており、低学力問題は能力主義・学歴主義の一元的系列下、進学問題と学習意欲の喪失という二つの面を持っていた。
学習意欲の喪失という面では、生活の共同がくずされ物象化・抽象化したことも関係している、という。
80年前後には、自閉的、衝動的、自己破壊あるいは攻撃的な非行が続出した。

教育学における人格発達論

70年代、80年代前半の教育学における人格発達論

  • 「学力の土台」「土台の土台」などと人格を階層的に把握し、全体としての子どもを把握しようとした。
  • 「子ども(の内面)をまるごとつかむ」という生活綴方的方法は、子どもの人格論を形成することはできなかった。
  • 登校拒否問題に教育学の人格論は十分に対応できず、精神分析・精神医学から人格論を輸入することになった。
  • 自我の発達を含んだ教育学的人格論・指導論の発展は今後の課題となった。
第五章 発達と学習の主体としての人格

本書には当然他の章もあるのだが、とりあえず「発達」について主題的に取り扱っている本章を勉強する

はじめに

the full developmet of personality 「人格の完成」(教育基本法

教育基本法に言う「人格の完成」の「完成」は「全面的な発達」ないしは「全体的な発達」を意味しているし、自主的な教師たちはとりわけ障害者教育の分野において「人格の完成」という「教育基本法」に謳われる「教育の目的」としてのこの文言の下、子どもたちの現段階に必要な発達を組織するという丁寧で根気の要る仕事に取り組んできた。

1.発達への懐疑?

70年代から80年代に教育ジャーナリズムにおいて流行した発達否定論・懐疑論は、雑多な議論の集合である。

  • 進歩という概念自体が抑圧的・差別的だとするもの
  • 発達は否定しないが教育におけるそれに懐疑的なもの
  • ピアジェらの発達論の形式的・図式的理解に基づく否定論
  • 発達概念が人間の関係性を個体に実体化する近代主義だという批判
    • 関係性を強調しつつ個人の発達を認めるもの
    • 個体性を関係性の中に解消するもの
  • 発達の領域固有正論……発達現象を一定の領域の内部に限定するもの

読解力がますます落ちているので、期待した内容を読み取り抽出することができないが、後日のために記録しておいてみる。

2.発達とはなにか
発達と教育

「発達」という概念の教育上の意義

  • 「発達」というコトバは「全面的な人格」「人格の全体」に親和的。
  • 学習や成長を受動的ではなく能動的な諸能力等の獲得のプロセスとして把握する。被教授権というより学習権に親和的。
  • 教育理論、教育学の批判吟味の際の視点として子どもの発達権がどのように保証されているかということが挙げられる。
    • 例えば障害児教育において、実践的には学校で準備されている教科教育を受けさせるのが学校の任務ではなく、子どもの発達に必要なことをするところが学校であるという反省。そしてそれは恩恵ではなく子どもの権利であり、獲得すべきものである。
発達保障

重症・重複障害児童を教育不能として放置することを人権侵害として告発し、発達権を中心に掲げる人権創造の理念として「発達保障」は主張された。
発達保証の理論と理念は、

  • 個人の発達
  • 集団とその関係の発達
  • 社会の変革・発展

という三つの系が相対的に独自の法則に基づいて運動しつつ、全体として相互連関をなしている、という認識がこの間の到達である。

矢川徳光──人格概念の導入と能動的自己運動としての発達

矢川徳光は教育の基本単位を「人格」とし、「人格の発達」を心理学的視野、個人主義的理解にとどめることを批判。
子どもの発達とは

  • 教育的諸関係の総和がはらむ矛盾
  • 矛盾と取り組む子ども=主体の活動
  • 主体の活動の産物

であるとみた。
そして到達した地平は(知る人ぞ知る)子どもの「発達=解放」という路線であった。換言すれば「発達=自由獲得」である。

発達的自由と選択の自由

発達が自由の獲得(制約からの自由)であるとすれば、選択の自由との関係はどのようであるか。
選択の自由、選択の幅を拡げることは、認識と行動の両面を含んだ発達である。
加藤繁美『保育実践の教育学』など参照

あまりここらで「自由」にこだわる意味がよくわからない。精度は高いとは思われぬ。矢川の画期は、マルクス主義的教育学の追及において「人格概念」を教育に導入したことによって、子どもを知識と能力の容器としてではなく《活動する主体》として《全面的・全体的》に捉えるようになったことではないのか。
また、ソビエト教育学における「全面発達」については本書は全く言及していないので、この概念との関係も不明である。

「発達は要求から」

発達保障の観点に立つ指導論においては、個人的・主観的な段階の「欲求」としての「要求」も重視する。
発達論的な観点からすると、子どもの行動には何であれ理由があり、その行動の背景を洞察する専門的な観点や熟練が教師には求められているのである。

「問題行動」と「発達要求」

発達というのは、量的、直線的、部分的な過程ではなく、質的な飛躍をともなう全体的な変化の過程であり、飛躍あり、とどこおりもあるジグザグの過程である。発達は環境との関係でもつれをおこしやすい時期、外的刺激に敏感な時期、比較的安定している時期、情緒的・情動的に不安定な時期など、さまざまな時期的な特徴をもつ。こうした発達の法則的な理解にたつと、特定の時期にある共通の「問題行動」がみられることがある。(・・・しかし)法則的理解ということと、その機械的適用を混同すべきではないことはいうまでもない。また、法則的理解は、例外をつねに含み、偶然や諸々の条件のくみあわせによって、法則性がさまざまな表現形態をとること、例外をつねにふくむことを否定するどころかむしろ必然的ととらえることも確認しておきたい。

要求の発達

さまざまな問題行動を「発達要求」ととらえるとき、問題行動には理由があるのであるから、問題行動を対症療法的に抑制するのではなく、「発達要求」に適切にはたらきかけることが課題となる。「発達要求」が満たされれば、問題行動は消失したり、消失しないまでも、形や意味を変えていく。
……
人間の発達とは要求の発達のことであるといってよいぐらいに重要である。子どもの要求をたいせつにするということは、要求が発達するという見とおしにたつことであり、要求の発達を人格発達の基軸にみる見かたである。

関係としての発達

発達的制約(遅れ)を診断・評価する場合は個々人の生理的、心理的側面のみならず、生育歴や生活状況などとの関連を踏まえた総合的な視点が重要である。
自然的、社会的制約をひとつひとつ脱却し、対照的世界を能動的に変化させる能力を拡大していくことを、発達的自由の獲得という。
人間の思考を、言語に媒介された高次精神神経過程であるとすると、人間の一切の思考は、それぞれの段階に対応する人間関係の発達を前提にしている。「自由の獲得」としての発達は、孤立した人間の能力の発達ではない。
人格を主体ととらえることの本来的な意義は、人間は関係に受動的に規定されるだけではなく、関係に能動的にはたらきかえすこと、変革主体としてとらえることにある。

協同の活動と対話

子どもが大人をうけいれていることを前提して、幼児期前半における人間の能力の発達は大人との協同の活動を通じて達成されるのが普通である。
子どもに対する大人のねがい・要求の無いところに子どもの社会的に有用な学習はなりたたない。
大人が子どもにコップでジュースを飲ませる場合の行為や反応の協調を想起せよ。
要求が無いところでは学習は成立しない。要求の必然性がない場合には、賞罰などを手段として人為的にでも動機付けをしなければならないことになる。

3.発達の主体としての人格
発達の原動力と源泉

ザンコフ:発達に於ける内的矛盾を「発達の源泉」とし、外的作用を「発達の条件」と表現した。
田中昌人:内部矛盾を「発達の原動力」と呼び、外的作用を「源泉」と呼んだ。
コスチューク:内的矛盾を「原動力」と呼んだ。
これらの「外的作用」は教育学で言う形成と教育の総体を指すと考えてよい。

発達の内的矛盾

発達の理論は未だこれらの諸矛盾を具体的な姿で把握するには至っていない。
外的作用と内的矛盾との関係は重層的であるし、外界と主体との相互作用も重層的である。外的作用が内的矛盾として発達の原動力となるなどという単純なものではない。
例えば外的作用が内面化された課題として自我に対する抑圧的作用を果たす場合もある。親・教師の期待・課題の内面化のありようも吟味されねばならない。子どもは期待に応え課題に取り組もうとしながら身体的な拒否反応を起こしてしまう場合など。
内面化された外的課題と自我との衝突、身体症状、人格発達の困難という現象は人間の内面のメカニズムに視野を固定しやすいが、むしろ外的条件のありようについてよく検討しなければならない。

「自我」問題と人格

登校拒否問題は「自我」の問題を教育学の理論的・実践的課題に押し上げた。
しかしながら、学校批判論と学習の転換論を展開した90年代の教育ジャーナリズムによって、人格理論は「自我」問題と接続するのではなく逆に切断された嫌いがある。「自我」問題は臨床心理学の中でもとくに自我心理学につよく傾斜したフレームで取り上げられ、それが教育学的人格論のフレームから切断され教育学に再輸入されているため、教育学は自我理論と人格理論とを接合できないでいるというのが到達である。

「自我」の発達

子どもが自分じしんのなかによりどころをもつことができるのは、「自我」のつよさがあるからであり、そのよりどころに依拠して、子どもは他者と交流したり、対象に働きかけてそれを変えていく活動をとることができる。
その育ちのうえに、認識の力が人格に結合し、
またいわゆる人格機能としての「意欲・関心・目的意識の系」がかたちづくられる。
70年代、80年代の子どもの「意欲・関心・目的意識」は、今日ではさらにそのもとにある「自我」をも問題にせざるをえないところまで、深刻さの度あいをふかめている。

 障害児教育では、他者との関係を形成することに発達的なよわさを持つ子どもの「自我」の形成、発達をどのように意図的に援助すべきかということが比較的早い時期から、すなわち、70年代からこのかたずっと実践の課題になってきた。
じっとして無表情な子どもが「〜したい」という要求をするようになるのにはどうしたらよいのか、他の子どもにたいしてすぐ殴ったりする攻撃的な子どもがやさくなれるのにはどうしたらよいのか、人との視線が合わない、などの孤立的な傾向の子どもにはどうしたらよいのか、従順で「イヤ」といえない子どもの場合は、などなど。
おおまかに言えば、ひとまづすの子どもの全てを受け容れ、子どもが「やりたい」できる』ことからはじめること、
しかし、人格の「解放」は「開放」や放任ではなく、大きな枠組みでの生活のリズムをつけていくこと、学習と活動を結びつけること、まずからだを「やわらかくする」ことなどに取り組むことから、子どもが子どもらしいをとりもどし、「〜がしたい」「がんばる」という要求がうまれてくるすじ道が確認されている。
しかしながら、「自我」形成に学校がどの程度関与しているか・関与すべきかは難しい問題であり、課題である。

南博氏の内的客我と外的客我

南氏によれば、日本人の自我構造の特徴のひとつを「主体性を欠く『自我不確実感』の存在」であるという。
自我は次のような構造である。

  • 主体的自我……主我
  • 受動的自我……客我
    • 自分から見られる客我……内的客我
    • 他者から見られると思われている客我……外的客我

「日本人の自我構造では、とかく外的客我の意識が強く、他人から見られている自分を意識しすぎる自意識過剰が、自我構造の全体に影響を与え」ている。自我不確実感は、主我が内的客我と外的客我の両方から「足をひっぱられ」て、主体が動揺し、不安を感じるときにうまれる。

4.人間的知性の発達
発達の概念と学習の概念

発達と学習とは違う概念であること。心理学上の学習と教育学上の学習も違うこと。しばしば心理学上の学習概念が発達と倒置され、結果発達概念が否定され学習だけが実在するとされていること。

最近接発達領域の概念

ヴィゴツキーの最近接発達領域の概念は、「現下の発達水準」と「明日の知的発達」の関係が「生活的概念」と「科学的概念」との関係を類推させるものであったことから、日本の教育に影響を及ぼした。
ここから「教育は発達の一歩手前をいくとき、よい教育である」という見方が強まった。
田中昌人氏は、レオンチェフらのソビエトの教授=学習理論が、ヴィゴツキーの理論をゆがめ「最近接教授−学習領域」に変質させ、発達理論が学習理論によって解体されようとしていると警告している。

科学的概念と人間的知性の発達

ヴィゴツキーが提起したテーマに、科学的概念の獲得が人間的知性全体の発達の全体にとっていかなる意義を持っているか」というものがある。

中村和夫ヴィゴツキーの最近接発達領域の概念について」『心理科学』16巻1号1994年
ヴィゴツキーによれば、

  • 科学的概念の教授は、生活的概念の一定の水準を前提とした最近接発達領域において行われる。
  • 科学的概念は、子ども自身の思考活動全体の最大の集中によって発生し、形成される。
  • 科学的概念は、生活的概念との結合・相続性の上に形成される。それは暗記されるものではなく発達するものである。
  • 科学的概念の発達の進行とともに、子どもの心理機能全体が改編される。
    • 子どもが読み書きできるようになるということは、そのことにつきるものではなく、読み書きの習得を通じて、そこにある一定の認識の体系に内在する科学的概念を獲得することによって、概念自身の自覚と自由な支配、世界とのあらたな関係のとりむすび、自己の心理過程の支配などを可能にする。
    • 学校教育学、今日儒学のテーマは科学的認識の体系的形成と人格発達との関係の事実に即した解明である。
いわゆる「四・五年生の学習のつまずき」

かつて四年生の学習のつまずきと9歳・10歳の発達の壁というものが重ね合わせて注目されたことがある。
抽象的概念の獲得をめぐる学習と発達の関係が深くなる。そのつまずきの克服は、教授=学習論的視点だけからでは困難であり、発達論的な検討も必要である。この年齢・学齢で概念形成と人格発達の接点が顕在化するからである。逆にこれは発達の飛躍の時期であることの証左でもある。
発達的条件がまずしく、学習が発達と切り離されて操作的な速度と言葉だけの暗記が求められると、発達の飛躍を準備する危機は負の危機としてのみ増幅し、自己破壊的行動となって現れることがある。

ところが、この時期のつまずきの原因はすでに二年生頃のつまずきであるという報告がある。・・・
逆に小学校高学年に登校拒否でほとんど学校に行かなくても中学の勉強についていける場合が多いという事実がある。
(難しい問題である)

5.現代的人権としての発達への権利
発達援助=人間の尊厳をきずく教育実践

子どもが自分の力を発揮できたとき、それがどれほど年齢的基準に照らして幼く、低い段階であったとしても子どもはうれしさを体中で表現する。そこに一緒に喜んでくれる友達や先生がいることで子どもは自分の生きているという力を実感できる。
その意味では発達は人間諸関係の中でのみ達成され、「発達」には「人間関係の発達」が含まれている。
人間関係から切り離し、「できる・できない」という能力により序列づけすることは差別になるだけである。また子どもの内面からのエネルギーの発露に「それがいったいなんになる」という冷や水を浴びせかける。子どもたちはそうした大人の序列的な価値観を受け入れさせられていることが少なくない。
しかし、現代社会では容易に差別的・被差別的立場におかれやすい(とりわけ学習障害のある子や発達障害のある子どもたち)。権利侵害としての差別が存在する。子どもたちが学習する力を身につけることは、子どもたちが置かれている社会的な状況を改善することには直ぐには結びつかない。

 教育と教育学は、こうした現実に対して実証主義的=傍観的な立場を採りはしないし、採ってはならない。教育と教育学は「教育的価値」の実現に奉仕しなければならない。教育的価値とは教育を受ける権利=発達権の実現である。発達保障の実現である。
 したがって、教育と教育学、教育者と教育学者は社会に民主主義を打ち立てる運動とふかい関連を持たざるを得ないのである。

主権と人間の尊厳

宗像誠也氏は教育の課題を「人間の尊厳を確立することである」とした。そして氏はその人間の尊厳の条件を「民族の独立」ということに見た。民族の自主独立が政治的民主主義の根幹を成すからである。
日本国がアメリカ合衆国に対して主権を奪われているという屈辱的関係は日本国民とその子弟の自意識に大きな影を落としている(米兵の犯罪や米軍の事故に対する治外法権を見よ)。
人間の尊厳を確立する歴史的な課題として発達への権利を語ることができると思われる。

「20世紀の未完の仕事」

ユニセフは1995年の『世界子ども白書」で訴えた。

子どものニーズや権利の確保を(世界開発サミットの)開発戦略の中心にすえるべきときがきている。
子どもこそが子どもの心身や人格の形成期であり、この時期にたとえ短期間でも子ども時代が台無しにされることは、人間開発にとって生涯にわたる傷や歪みを与える。

子どもの発達にたいする態度が社会発展の成否を左右する決定的な課題となっているという世界史的な認識がユニセフにはある。社会発展と子どもの発達を統一的にとらえようとする志向性、逼迫性、ユニセフにこのように認識せしめた世界史の必然がみてとれる。

運動の個々の目的が民主主義や人権であろうと、開発や平等、男女平等や環境保護であろうと、子どもの発育、発達、教育こそが長期的な成功の鍵になる。

読書終わり。


発達、人格、自我などの肝心な概念と相互の関係について、教育学は課題意識は持っていても到達についての一致すら不十分で、共通の語る内実を持っていないらしいことには、正直がっかりさせられた。
発達の主体は人格であり、人格には自我機能が不可欠であること。
発達は人間関係を含んでおり人格は関係には解消されないこと。
人格の発達に於ける自我の位置づけについては教育学は主題ではあっても解明の課題であるにとどまっていること。