▼Care──ケアとは何か。個人の尊重とは何か。
認知症ケアの簡単な講義を聴講。
私は認知症の人とかかわることがほとんどないし、全くといってよいほど認知症とその介護については無知である。たまたま認知症ケアについての一般向け講義を聴く機会があった。
認知症(旧称痴呆症)の人に対する対応と言えば、障害や事故から安全を確保することが必要で、監視や監督、管理の対象であるということ以上のことをイメージできなかった。見当外れのことを言われたら機嫌を損ねないように調子を合わせればよく、栄養と衛生に注意する以上の何が必要だというのだろうか、と流していた。
認知症のことについてほとんど何も考えたことも知ろうとしたこともなかったのである。
以下はほとんど受講に基づいた情報をのみもとにしたノートであって、ネットででもほとんど何も調べていないので、予め断っておく。
認知症とは
認知症はアルツハイマー病など、不可逆的な・人格水準を低下させ、それが時には進行していく脳神経の疾患である、という以上の認識がなければ「ケア」ということは考えられないだろう。最近は、知的能力をなくした「状態」として捉えられるべきであって、人格水準が低下するかどうかはケアの質が大きく関わっていると考えられているらしい。そしてそのケアとは
- 個性を維持し、個人の物語を尊重することである。
- 安全な環境の提供、生理的要求の充足、身体的なケアは必要不可欠かつ重要であるが認知症ケアの一部に過ぎない。
したがって、認知症は神経系の壊滅・死滅の過程という理解ではなく、個性の過程であるという理解のほうが、ケアにおいては重要になってくる。
認知症ケアにおいては
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- 認知障害と人格崩壊のどの段階にいたっているかを掌握すること、ではなく
- 個人の能力、趣味、興味、価値観、精神性を正確に理解することが重要となる。
認知症の問題行動
認知症の問題行動は単に管理監督、拘束の対象ではなく、認知症者の何らかの要求を伝えようとするコミュニケーションの試みとして捉えられねばならず、ケアする者はそれを理解しようと努力しなければならない。理解しようとする熱意は(悪感情や忌避感情などの感情と同様に)伝わるものである。
なお、ケア提供者の対象者に対する否定的な感情は提供者の側にこもらせて抑圧しながら効率の良い作業を組織するという態度よりも、否定的な感情を対象化して集団的に(多面的に)、対象者とケア提供者それぞれの問題、その相互の関係の問題として検討するのが良い。
中核症状と周辺症状
中核症状は必発に近い症状であり、次のようなものがある。
- 病意の欠如
- 記憶障害
- 知覚障害(感覚器に与えられた情報の適切な取捨選択と構成ができない。奥行きの認識ができない、エスカレーターに乗れないなど。)
- 身体的不調
- 覚醒度の揺れ、感情のコントロール不全
- 実行機能障害(段取りがとれない)
- 知的な自我=私の崩壊
- その他言語障害、行為障害
周辺症状は精神症状や行動異常、われわれ素人が接して「人格の異常」と感じられる「よく分からない行動」や症状である。
- 幻覚・妄想
- 抑うつ
- 徘徊、攻撃的な態度
- 作話
- 嫌悪顔貌や攻撃的行動などによる介護拒否
「よく分からない」周辺症状とケア
異常行動をケア提供者はどう捉えればよいのか。施設や過程では本当に「困った」ことである。
- ボケてもケア提供者や家族の「感情」はよく伝わる。何も分からなくなるわけではない。
- 認知症を生きる人には認知症を生きる人の世界があり、尊重しなければならない。ただし、その世界は行動などから推測するのほかないのだが。
- 彼らの異常行動は、彼らにとっての異常事態に対する対応なのかもしれない。異常事態に異常な行動をするのは正常である。崩れて行く「私」、「できなくなっていく」「私」、違和感の強まる「私」に私が必死になって適応しようとしているのか。
- 必死の適応行動が脳障害とあいまって、より不適切な不適応な言動となっているのではないか。結果として。
われわれの考え方・対応としては
- 身体的・医学的不調があるのではないか。
- 認知症を生きる、その「生きにくさ」から理解できないだろうか。
- どのようなときに問題行動があると考えられるのか。
- 何かの行動が中断させられたときか
- なにかでの興奮か
- 身体的不調か
- 意味不明の発語や叫び
- 訴えているのか
- 痛みを表出しているのか
- (うるさいなど知覚的)情報過多に対する叫びなのか
- その他、自傷・所持品の破壊
- 自己嫌悪・自己に対する不安?
- 何か表現したいのにできないからそうするのか
ケアとは何か、個人の尊重とは何か
実践的には、気難しくて情緒不安で、作り話をし、時には叫んだり拒否したり、急に疲れて眠ったりする高齢者の相手をし続けなければならない。それがケアを職業とする者のシゴトである。
紹介事例では、監視・管理・拘束するのではなく、日々の担当者を決め、機嫌がよければ積極的にかかわり、家族のことや昔のことを話題に話しかけ、機嫌の悪いときには少し距離を置くなどの関係を保った。数ヶ月で周辺症状は改善し安定した(長かった)。
よく分からない行動や言動はけっきょくわからないままであった。
認知症のケアの歴史
- 認知症患者を収容し(隔離し)治療するというやり方から日常生活の場でのケアになってきている。
- 観察し指摘・評価し、間違いを矯正するというやり方から人間的なかかわりを持つケアになってきている。
- 問題行動に対する対処方法をのみ追究するやり方から問題行動の原因や理由を探るケアになってきている。
- 症状固定ではなく可能性を伸ばし、本人の変化を期待するケアになってきている。
物語としての私
私というものが「私=私」という等式ではなく物語としての私として存立しているという自我観・人格観。
青年と認知症ケア
また、認知症ケアのアプローチは、オトナから見て「よく分からない」青年に対するアプローチとして有効だろうか。有効でないだろうか。それぞれそれはなぜだろうか。
収容し監視し間違いを矯正する対応は認知症者の内的世界を無視して外的世界にはめ込むか外的世界の外に追いやるものというイメージを抱かせるものであるから、認知症者の世界に迫ろうとする態度でコミュニケーションしようとする認知症ケアは個人を尊重したもの、人格を尊重したやり方であるように思われる。そうであるなら、相手の内的世界の尊重、相手の「物語」の尊重という側面に限れば、それでは「ケア」とはいったい何なのか。
社会的に生活が困難になって、一個の人格として生活の中で流通させることができなくなった人に対して、専門職なり家族なりが、彼の人格の尊厳を守り個人とその個性を尊重する「幻想」(適当な用語を今は持たない)を抱かせることがケアであると言えるのか。
それでは日本語を解せず使えない外国文化の外国人が日本にやってきて生活が破綻しそうになっている、その外国人に対するのと同じイメージで「ケア」すると考えて良いのだろうか。
などという「感想文」を書いた。
私が誰かわかった人も現場では知らぬふりをしていてくださいね。