▼何のために学ぶのか。何のために生きるのか。新自由主義は子どもを哲学者にする。

ただし、犬儒派からニヒリストへ、即物主義へ。ついには経験論者へ?

日経ネット関西版 【2006年9月13日】 <旅の途中>それは何の役に立つんですか?──神戸女学院大教授・内田 樹

http://www.nikkei.co.jp/kansai/elderly/35511.html
このお方のお名前はよくリンク先として見かけるけれど、blogで有名な方らしい。チラッと見したことあるが、あまり面白くなさそうなので読んだことはない。今また見てみたけれど、同じ。
それにしても、このエセーにはがっかりである。

 「それは何の役に立つんですか?」という問いをよく学生から差し向けられる。「文学作品を読むことにどんな意味があるんですか?」「哲学を勉強すると、どんないいことがあるんですか?」。

 子どもたちはこの問いを通じて、こう宣言している。「それがどのような利益を私にもたらすのかを、納得させてくれたら、私はそれを行うだろう(納得できなければ、行わないだろう)」。

 一見すると合理的のようだが、この問いは致命的な難点を含んでいる。それはこの問いを教育の場で許した場合に、子どもを学びに動機づけることがたいへん困難になるということである。

 「学ぶことは何の役に立つのですか?」という問いに対しては、「その問いそのものの無意味さをいつか君に気づかせてくれる役に立つだろう」と回答するのが「正解」である。もちろん、子どもはこの「正解」の意味を理解しない。けれども、子どもが理解できない言葉を告げることをためらったら、教育はもう成り立たない。

 教師も親も「勉強すると進学に有利で、就職に有利で、配偶者の選択に有利で…」といった功利的な動機づけで子どもを説得することに汲々(きゅうきゅう)としている。

 「子どもにもその有用性がわかる利益」とは同時に「子どもにもその無意味さがわかる利益」だということである。

「合理的」判断の積み重ねが人を非合理な帰結に導くこともあることを子どもは知らないだけである。

がっかりしたのは

  1. 教育観・子ども観
  2. 学問観
  3. 問いへの答え

である。


教育観・子ども観

 この方は教育学者ではなさそうなので、あれこれの教育学上の到達を踏まえていなさそうな文言は引用もしていない。
 しかし、「子どもが「自分にもわかるような利益」を「万物の尺度」として学びの場に持ち込むことを許せば……小学校1年生の時点で「国語を学ぶ」ことの利益について納得のゆく説明を得られなかった子どもは、6歳児の国語力を一生ひきずってゆくことを選ぶのである。」などという単純なものではないのだから、そうは書いてほしくなかった。
 公教育が、労働力商品の生産、タレントの生産という側面を本質的に持ち、労働力商品としての価値をどれだけ高めるかという課題が親にも子どもにも抜き差しならぬ先鋭化した課題、人生的な課題になっているという現実があるからこそ、また、理由は別にして「学校で教えること」とくに「学校で学ぶこと」が困難になっているからこそ「何の役に立つのか」という問いが発せられるのではないか。

 

学問の意義と資本主義、新自由主義

 その知識や技能が労働力として直接・間接に役立たねば、資本主義社会では当該知識・技能は無意味であろう。
 しかしエセーだからか教育のみならず学問そのものの資本主義的形態についても批判もせず「功利的な動機づけで子どもを説得することに汲々としている」と、あざ笑っているかのようである。

学問の意味。生きる意味。「無意味の意味」>>すべてがいやになる「正解」

 たしかに読みようによっては、「学問」と「功利性」という二者が相容れないか、そぐわないという立場であれば、すべての経験と論理と認識等々を体系的で発展的な知へと転換する学問がその立場に至らしめるということはあるだろう。
 しかしそれなら「学問とは何か」「功利性とは何か」「無意味とは何か」、ひいては生きる意味について、方向性だけでも述べるべきではないか。「無意味であることに気づく」だけでは、すべてが空疎なまま放置されることになろう。

この人は何によって生きているのか

 「子どもの人生経験では、文学や哲学や「学問全般」について書いてあることを知ることはできても、理解することは無理なんだよ。働いてお金をもらったり、死にたくなるほど悔しい思いをしたり、心の底から結婚したいと思ったりできるオトナにならなければわからないのだよ」ということなら、そう書くべきである。
 しかし、この文章を見ると、どうもそうではなく、所詮文学や哲学というものは、闇に投げ出された無意味な合理性の塊なのだ、というような学問観が背後にあるように思える。
 そうだとすると、この内田という人は、自身の何に対して給料や報酬が支払われているのだろうか。

読み間違い?

 それとも、浅学低脳「ウスラ読み」の私の誤読・曲読なのかしら?
 大切なのは、「子どもにもその有用性がわかる利益」とは同時に「子どもにもその無意味さがわかる利益」だ、という。
 どんな利益なのか? どう読むのが筆者の意図に沿うのか?

所詮学問に有用性がないのだから、学問は無意味である。勉強はだから時間の無駄だ、ということがわかる。

学問には高尚な価値がある。だから有用性の有無を問うのは高尚さの前に無意味である、ということがわかる。

子どもにでもわかる有用性は多面的・全面的ではなく一面的である。そのような一面的な有用性が、一面的なものに過ぎないということは子どもにでもわかる。幼稚な利益は、子どもにでもその無意味な幼稚さがわかる。
だから、子どもが一面的な有用性・幼稚な利益をのみ理解し、学問とはその程度のものかと思うと、学習意欲を削いでしまう。

最後の読み方が、本文の最後に適合的ではある。
文中の「正解」にも適合的と言えなくもない。
でもそれなら、学問とは何か、子どもや教育とは何か答えてほしかった。冒頭の問いは後半想定されているであろう小学生ではなく大学生なのであろうから。