▼ハイパー産業社会における「象徴的貧困」

岩波書店『世界』2006年5月号

http://www.iwanami.co.jp/sekai/2006/05/directory.html
スティグレールっていう人の記事があるのを見て、
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2006/05/176.html
インタビュー ベルナール・スティグレール「『象徴的貧困』というポピュリズムの土壌──『意識の市場化』からの脱却を」

GAKU氏の「象徴的貧困」を思い出してリンク先などを読んでみた。
今回の『世界』の記事に一番近いのは、下記であった。


「欲望、文化産業、個人」ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler)訳・逸見龍生
http://www.diplo.jp/articles04/0406-6.html


大衆や個人の自我や人格形成、要求・欲望、社会病理事象などを、フロイトラカンなどの思想とコトバで考える習慣がフランスでは強いのだろうか。私はそういう訓練を自らに課したことがないので、わかりづらいものであった。

象徴的貧困

日本語に訳された「象徴的貧困」は、NINE氏の言う「無限消費社会」主導下の「情報化社会」でのメディア機器によって孤立させられた若者たちの状況のことに似ていると思う。単なる「イメージ能力の貧困」とかいうのとは違うように思われる。

「象徴的貧困」を……「生産における貧困」との対比で考えています。(『世界』p.176)

つまり、生産の機械化・自動化に伴って生産者の「智恵」「技術」「技能」が機械に移行し・吸い取られ、生産者(労働者)が機械に従属してしまうのを「生産における貧困」という。

20世紀の、とりわけ1968年以降の「脱産業社会」はレコード、映画、ラジオ、そしてテレビによって大衆の欲望を掻き立て、大衆の欲望を支配することによって消費行動をコントロールもしくは扇動する管理社会となった。資本は販売のために人々のリビドー(欲望)を、親や恋人、宗教や政治など理想的な「昇華」対象から消費へと振り向け固定させた(マーケティング)。
資本はテレビを普及させ、人々は仕事・通勤・睡眠以外の時間をテレビのような「時間性」を具えた備品を相手に過ごすようになった。
こうして、自ら想像したり、自分自身固有の欲望を生み出したりする「リビドー」は文化産業に吸い取られてしまった。

自分自身のリビドーを、固有の「欲望」として表現し構成していくための象徴的リソースを人びとは失っていくことになる。これが「象徴的貧困」の進行です。p.179

こうして諸個人の個別的な固有な欲望も経験もすべてが文化産業に吸い取られ、人びとには個々人に固有な過去などなくなってしまい、過ぎ去った流行しかなくなってしまう。

象徴的貧困は資本主義の自滅的危機を招来する

スティグレールによれば、

  • 諸個人が標準化されたものを消費し、標準化された過去を取り込むと、諸個人は自らの単独性を失ってしまう。
  • リビドーは自己と対象との単独性に基づいたものであるから、諸個人の単独性が失われるとリビドーも崩壊してしまうし、対象の単独性に対する感性も失われてしまう。
  • そうなると消費行動・購買行動も衰退してしまう? 資本主義の第二の危機である。

象徴的貧困は実存的犯罪を誘発する

スティグレールによれば、

  • 消費者はマーケティングの標的になっていると、自分が自分として存在しているのだという感覚を失ってしまう。
  • だから自己確証のために凶行に及ぶし、そのことは犯罪者の日記等に証明されている。


しかし、このような凶行・衝動的凶悪事件などの発生が世論のパニックを起こし、それが社会の退行的行動となって現れ、「秩序」や「権威」などが声高に要求され、「政治的ポピュリズム」の下地が作られるようになるのだが、それは見てきたように実は「産業ポピュリズム」によって準備されているといえる。
人びとのリビドーはどんどん時間装置・時間商品によって破壊されていくので、資本主義は人びとの欲望ではなく衝動に訴えるようになった。正義や理想、英雄などの「欲望」ではなく性的表現、暴力など直接的な「衝動」に訴えかけるようになった。

象徴的貧困からの脱出の道

新たな産業モデルが必要である。今、テレビやコンピュータ、携帯電話などの技術は個人の個別性を喪失させ「経験喪失」をもたらしているが、この技術自体は新しい個人の個別化を生み出すこともできる。
問題はマーケティングによる社会の組織化・コントロールをやめ、別の社会に組織することだ。というのも、今のままのマーケティングでは、みんなのリビドーは衰退し、買い物に行って破壊行動をとるかもしれないではないか。だからマーケティング自体が変わらざるを得ないだろう。


人々の欲望が作られた流行や広告によって支配されている。自由な行動は商品として準備されている。すべてが先回りされている。そういう社会になったという論は良い。許容する。
だからといって、そのこと自体が直接に諸個人の個別性を不安なものにし、実存的な犯罪に駆り立てる、というのはあまりに単純・粗雑であると思う。

ディズニーランドやUSJに中途半端な金額しか持たずに行けば(行ったことはないし、行く気もないが)、入園者はカネを払って受け取るばかりで、「象徴的貧困」と「絶対的貧困」とを同時に味わうことができるであろう。

こうした幻想を買う遊園地・テーマパークでの自我の崩壊、リビドーの衰退、衝動的な凶行が多発するようであれば、この人、スティグレールの言うことも一理あると思えるであろう。遊園地に通いつめるとおかしくなってしまうということがあるだろうか。それとも遊園地はテレビよりも具体的で体験に個別性があるからOKなのか。それとも遊園地に暮らさないとダメ?


スティグレールより三浦展の「ファスト風土」やNINEの「無限消費社会」のほうがよほどリアリティがあると思った。

あと、ポピュリズム大衆迎合主義?)っていうのが何なのかよぐわがりませんでした。