▼自閉症児に関する本を読んで、異様な印象を持ったこと

数字と踊るエリ 娘の自閉症をこえて

数字と踊るエリ 娘の自閉症をこえて

矢幡洋氏『数字と踊るエリ《娘の自閉症をこえて》』(講談社、2011年)を一気読み
まずはじめに、娘さんの「療育」に渾身の日々を送ってこられたことに敬意を表する。また本書の最後のほうでは、思いがけない「回復」を示したらしいから、喜ばしいことだし、もしかしたら両親の系統的な「療育」の成果かもしれない。
それでも、本書は奇異な印象を与える。わたしはその道の専門家でも関係者でもなんでもないし、著者のように京大なんぞも出てないし洋書も読めないから、見当はずれの印象かもしれないが、列挙しておく。

不幸だが努力家で頭のでかい父親が主人公

  • まず本書の主人公は自閉症と診断された娘、エリさんではなく、自閉症の娘と育児疲れで体を壊した妻とを持つ「僕」である。自閉症を「こえる」のは当のエリさん自身ではなく「僕」なのである。このことが「異様」な印象という表現をわたしにもたらした。主人公が父たる「僕」であることを踏まえておかないと、自閉症の子の親は本書を読み始めてすぐにがっかりしてしまうだろう。
  • 保育園に通わせていたのに、保育園とエリさんの両親(以下、親と書く)との、エリさん本人の発達についての情報交換が卒園間近まで何もなされていない(ように読める)。保育園もひどいし、親もひどいと思う。
  • 入学前の知能テスト等の結果を踏まえ、教育委員会から特別支援学級特殊学級)を勧められたのに、子どもの発達とは違う観点からこれを断っている。親の「見栄」と障害を受け容れたくない気持ち(それは共感はできる)と両方だろうが、前者が後者を増長させている。
  • 入学前も入学後も学校側と話し合っていないか、不十分な情報交換しかやっていない。少なくとも学校・教員・学級と親との間で何の目標も共有されていない。
  • 親はエリさんが学校でどのように「発達」していくかということより「きちんとする」適応のことばかり気にしているように思える。
  • 他の自閉症の親や諸機関へのコンサルはほとんどかまったくしていなくて、自分で本屋で見つけてきた「米国流」の療育方法を我流でやってみたり、米国在住の権威に連絡をつけてみたりと、エリさんを育てる過程そのものが「自閉」的。著者の職業や学歴やプライドのようなものがそうさせているのではないかと感じられる。
  • したがって、本書の始めから終わりまで、「僕」も「妻」も孤立しっぱなしである。学校でどのような支援が、誰からなされたかもさっぱりわからない。エリさんの友だちは「僕」にとってはエリさんが学校で粗相をしてもいじめられない庇護者、せめて「つっこみ」をしない人たちくらいにしか考えられていない。
  • そもそも発達の諸段階についてのまとまった記述もなく、「読んだことがある」というようにしか発達について書いていないので、彼女がどの段階・どの能力をクリアできていないのか、どのようなエネルギーで何を獲得しクリアして行ったのかもわかりにくい。高学歴の親がやみくもに本を読んで働きかけ続けた(そのこと自体は敬服すべき努力と年月だとは伝わってくる)、その「やみくも」の向こうに急に突き抜けた事象が示されるので、本当に「米国流」のおかげなのかどうか疑問。(著者さんは怒るかもしれませんが)
  • 「注意(意識)のコントロール」だとか「時系列での事象の整理・認識」(そういう言葉は使われていない)その他、というような目標を立てて、そのクリアのために工夫して教材を作ったり、働きかけたりしたことはもちろんわかるが、その目標の、個人の発達のプロセスの中での位置づけや必然性が説明されていないので、前項のような印象になるのかもしれない。

「あとがき」も

 ……僕は、本書を「日本で初めての米国的方法論による自閉症児の療育成功記」と位置づけられるものにしたいという意気込みで書き始めており、記録性にはこだわりがあった。

などとあり、やっぱり主人公はエリさんではなく、日本ではあまりやられていない「米国流」を発見した賢くもすばらしく忍耐強い「僕」なのである。「記録性にこだわ」った、その割には本書によって学校や他の自閉症児童の親が参考にできる「記録」は、ほとんどないのではないか(それはもちろん、私の読後の印象に過ぎないが)と思う。
いずれ、障害児教育や療育に携わる人たちから批評が出るだろうが、著者と奥様の努力に敬意は払いつつも、けっこうひどい本だと評されるんじゃないかなぁと、そう思う。
もし採るべき記述があるのなら、ぜひ専門家によってつまびらかにしてほしいとも思う。「僕」がじゃまになって、エリさんの発達のプロセスがよくわからん。


まあ、否定的なことばかり書いたけど、もっとわかりやすい評論が出て、上の否定的な事柄を全撤回できれば、それはそれで喜ばしいことである。しばらく期待しつつ待っていたい。

自閉症児の発達を保証する環境作りには、何の参考にもならない

翌朝追記:

自閉症は改善する」と訴えたかった。
自閉症は適切な年齢に適切な介入を行えば、脳障害ゆえ完治までは望めないにせよ、大きな改善が起こりうる」

それは、伝わりはすると思う。
障害者問題についてもわたしは部外者的無知蒙昧なのだが、自閉症は「治療」の対象と考えるのが適当なのだろうか。エリさんに対人的な感情の発露や表現が見られるようになったことは喜ばしい。それは「回復」ということばで表現されるものなのだろうか。


もし、筆者のやり方が百パーセント正しいとして、自閉症児の親のだれもが同様に行動することは無理である。ということは、公的な医療・療育・教育機関がどのようにネットワークを持ってどんなことをやっているか、とか、何が問題・課題なのかとかいうことが明らかにされなければならない。
しかし今、日本でさまざまな様相の自閉症児に対して、どこでどのような療育・教育がなされているかも、この本ではさっぱり分からない。というか「特殊学級」をブラックボックス視、あるいは蔑視しているか全然信用していないままである。
自閉症児の親からして見れば、「それだけ(熱心に働きかけを)やったら何か変わるかもしれないけど、うちはとてもじゃないが無理」と思われてしまうのではなかろうか。上にも少し書いたが、学校との連携もほとんどないようだ。というか、筆者にとって「学校」はすでに「世間」であって、子が育つような場としてはあまり捉えられていないように思う。それなら、さまざまな児童が通う学校の、子どもの発達を保証する場としての課題も明らかにはならないだろう。


もし、子ども等の発達環境の改善にとって、何か参考になるものがあるとしたら、こういうプライド高く孤立して涙を流して奮闘している親御さんの「ありよう」ということだろうか。