▼言語、人格、統合失調、失業、青年

恵まれている人にはまず、「混迷状態」「パニック」という「ような」ものを理解してもらわなければならない。


われわがモノを見たり聞いたりするときは、聞きたいもの・聞くべきもの・見たいもの・見るべきもの以外のものにはあまり注意をはらわず・捨象して、聞きたいもの・聞くべきもの・見たいもの・見るべきものをのみ、意味を付与して取り入れている。意味づけのフィルターが働いている。
ところが、こうしたフィルターが機能しなくなって、あらゆる情報が何もかも等価で視覚を襲った場合、耳に入ってきた場合を想像できるだろうか。
まず、目は非常にまぶしく感じる可能性がある。すべての光を感じてしまうからだ。本棚の文字は自分を窒息させるように襲ってくるだろう。人は本棚の本の背表紙のうち数冊しか意味することを許さない仕方で本棚を見るものであって、視界の本がすべて等価に語りかけてきたりすれば目を逸らすことだろう。
人はテレビを観ながら飯を食い、時々新聞を見ながら同席している人の話を聞き、発言することができる。情報のボリュームをその時その時瞬間瞬間に調節しているのである。テレビと妻(夫)と子どもとが同時にしかも等価で話しかけて来たらどう反応するだろうか。普通これらは全てのボリュームがしぼられて、「魂」はいったん自分の陣地に引きこもり、これらを聞き流しながら重要と思われるところだけをピックアップして対応しているはずだ。
ところで、たとえば中学校の教室で、自分が男子生徒だとして、日ごろから恋焦がれている女子が、名前で自分に呼びかけたとしたらどうだろう。自分の「魂」は強力な力で外に連れ出され、その声に対応するだろう。
そういう強力な力、バリアを破って肺腑をわしづかみにして引きずり出すような力を「言葉」は持っている。
さて、そんな力を持って、何人もの人が自分(例えば田中正彦)に向かって「田中君」「おい、田中」「正彦!」「正彦君」「まーちゃん」などと同時に・てんでばらばらに呼びかけながら何か頼みごとをしたり命令したりしたとするとどうなるだろうか。
つまり、そういう情報群・魂の引きずり出しに対しては、人はいったん閉じこもって自分の足場を確かなものにして、自分が処理できる情報量に絞り込んでから順番にことを処理して行こうとするはずである。
外界の情報をシャットアウトせず保留にしたまま、それぞれの声の持ち主やトーンが、それぞれ固有の記憶や意味(自分が認められる、怒られる、いじめられる、過去の出来事、喜び等々)を脳内で展開してしまおうとするのをセーブして「おのれを失わずに」、きちんと「田中正彦」として世界に相対する、これは凄い作業である。
「偉い人」になるとそれを何人かの秘書にやってもらう。
それが個人の人格内で、できない人や苦手な人、それは脳の機能障害としてできないこともあれば、強いストレスにさらされてできない状態にある人もあるだろうが、そういう人は「いったん引きこもる自我」が脆弱な場合がある。
うつ状態はある種の防衛機制であって、こうした情報をシャットアウトしたり反応できないようなシフトを脳が組んでしまうので、人はマイナス感情ではあっても自己に閉じこもることができる。そこに確固たる自己があれば、やがて再起可能である、そう考えることができる。
「帰るところがある」、というのはそういうことではあるまいか。
住居としての「家」がある、とにもかくにも受け入れてくれる「家族」がいる、「高校を出た」ということが拠り所になっている、何かの資格を持っている、何かの宗教団体に所属している、大した落ち度や失敗も無く「良い成績で大学を卒業した」等々、人には物理的・社会的・精神的・経済的に「帰る」ことが「できる」ところが必要なのである。
そこで自分のフィルターを確かなものであることを確かめて、身の丈にあった・チャレンジできる事柄に立ち向かうことになる。


では、そういう「帰るところ」無かったり、フィルターが脆弱であったりしたらどうであろうか。


まず、フィルターが機能しない場合。襲ってくる情報は素のまま脳に達するから、人はそれに圧倒される。そしてそれが複数であれば複数であるだけ人はそれに引き裂かれる。期限内に、どうしてもやらなければならないこと、やらなければ・できなければ「大変なこと」になってしまうことが幾つも(二つで十分だが)ある時、人は引き裂かれる。そんなふうに本の表紙の文字、隣の人の話し声、窓を過ぎる看板の文字、これらが全く等価に重大に脳に達して意味を求めてくる。引き裂かれる前に人は逃げたり・捨てたり・破壊したり等々の防衛をして自我を守るのだが、脳の生理としてそれができない場合、人の魂は何に従って、何を支配するだろうか。大声で意味のない叫びを叫んで喉と耳とを「ウワーッ、ウワーッ」という叫びで満たしてあふれさせ、かろうじて自己に触って自己を維持しようとするかもしれない。指は顔を伝って頭をかきむしることで、自己を感じようとするかもしれない。
慣れない仕事が自分にとって「たくさん」あるとき、それを責めたてられているとき、人の気持ちはそういうラインの上にあるはずだ。
「帰るところ」がない場合はどうだろうか。「帰るところがない気持ち」は何かの締切が決定的に近づいている気持ちである。それは受験の日が明日、ということよりも「自分の活動の至らなさが、とうとう締め切りを明日にまで呼び寄せてしまった」という「決定的」さである。逃げられないどころか、その締め切りに向かって全魂を出動させなければならないのだが、それが足場を失って中を蹴っているような気持ちを考えるべきだ。つまり「帰る家がない」「身内を頼れない」「高卒という『資格』が無意味」「圧倒的多数の文学部卒はヘルパー資格より劣る」「女性であるから評価は60%が出発点」など、帰るべき自己の意味・質感というものが奪われてしまっているような事態、それを毎日毎日毎日毎日告げられていて、そういう告知される道しかありえないのだ。
制服を着て特定の道路を高校に通うが、その高校に通うということは自分がクズ人間だということを日々実践して披瀝するようなものだ、としたらどうだろうか。
若者が、青年が、就職口がなくて「失業している」という事態はそういうことだ。自分は「社会から必要とされない」ということを全身全霊で受け止めなければならない毎日毎日、そして明日もその毎日なのである。


青年たちに何の落ち度があるというのか?


(ちょっとじゃまがはいったので、これまで)