▼人はどこにどのように生れ落ちるかわからないのです。

人は、どの母親からどのような家庭にどのように生まれるか、わからない。自分が誰になるのか、前もって知ることはできない。生まれたときにすでにあるのは、それまでの過ぎ去った歴史だけだが、その歴史が自分にどのように伝わるのかも前もって知ることはできない。
もしかしたら、自分は隣の人の子として産まれていたかも知れないし、インドでも貧しい家庭の女の子として生まれて、早くから働きに行かねばならないかもしれない。アフリカで生まれて誘拐されて、脅されながら戦闘員になっていくのかもしれない。

 上田清司埼玉県知事は(2009年7月)1日の県議会本会議で、県立学校の式典で君が代斉唱時に起立しない教員がいることについて「式典のルールに従って模範を示さなければならない教員が模範にならないようでは、どうにもならない」と述べた。その上で「そもそも、日本の国旗や国歌が嫌いだというような教員は辞めるしかないのではないか。そんなに嫌だったら辞めたらいい」と強調した。

これに対して、これを支持する意見が県庁にたくさん寄せられたというのを読んだ気がする。
私はシンボル崇拝ということが好きではないし、それを押し付けられるのはなお好きではない。この知事の意見を支持する人は、それは「好き嫌い」ではなく「遵法」の問題だという人が少なくないらしい。
交通ルールは人の命や財産を直接に守るために、これは遵守しなければならないし、その他の諸法も公共の安寧というかスムースな社会生活を送るために遵守しなければならないのはわかる。
しかし、「シンボルを崇拝する態度を示せ」というのは、イデオロギッシュな要請である。これは「民主主義」の諸価値とは違う価値に基づく要請である。諸個人が帰属する団体のシンボルを他律的な一定の様式に従って尊重せよ、ということであって、そこには「自由」がないし「民主」もない。
「辞めたらいいのに」というのは、一つの道理ではあるが、そこは「公教育」の場である。……まあ、話はこれでやめておこう。



人はどこに生まれてしまうか、わからかない。人にキライな国や人物があるのは、不自然なことではない。
じゃあ、今いちばん嫌われている北○○に生まれて、飢餓にさらされ、体制におもねる奴等とズルイ者だけがうまいものを食い、人殺しの道具や技術や薬物を輸出しながら、そのアガリ核兵器開発に注ぎ込むような国に生まれて、独裁者の絵と国旗とに最敬礼して、そんなに嬉しいかねえ。
それでも喜んで従う・しぶしぶ従う、というのなら、その人はそういう人なのでしょう。
そういう人はかわいそうだと私は思う。