▼セクハラ・性暴力事件、その後―人格形成の問題―

大学から文書が出ていた。日付のない文書だが、ファイル名からすると、8月6日なのかもしれない。ちょっと長いが掲示しておく。
大学、加害者、被害者を叩くのが目的ではなく、一つには、日本の学校でのスポーツのゆがみ、もう一つには「性」についてすこし考えて見たいのである。
(下の引用のうち、○印に数字は、ローマ字に置き換えた)

京都教育大学学生の不祥事に係る報告書

国立大学法人 京都教育大学
学生の不祥事に関する特別対策委員会

◎事件の分析と対策の方針

1.事件の原因
 1-1.大学の問題点
 加害学生の「性倫理と性暴力に関する認識の欠如」および「判断力・批判力の欠如した集団の形成」と「未熟な対人関係能力」の問題に対して,大学側の認識が不十分であった。大学は学生を過度に信頼し,このような問題に対応する取組をしてきておらず,厳格な懲戒規定等も整備してこなかった。
 未成年の飲酒や飲酒の強要を禁ずる指導は毎年行ってきたが,守られていなかった。とりわけ保健体育科教育専攻,スポーツ・健康マネジメント専攻,および体育領域専攻では指導の徹底が図られていなかった。
 1-2.加害学生の問題点
 a. 性倫理と性暴力に関する学生の認識の欠如
 加害学生には性行為が両性の対等で健全な関係に基づく合意を前提として行われなければならないという認識が希薄であった。また,自分たちの行った行為が暴力であり,女子学生に多大な被害を与えたという認識が全くなかった。
 b. 判断力・批判力の欠如した集団の形成と対人関係能力の未熟さ
 加害学生の一部には以前から「同調性」「集団性」の強い傾向があった。加害学生の集団には,同調圧力に抗して集団での行動に歯止めをかけることのできる判断力,批判力を備えた者がだれもいなかった。また目撃者もいたが,加害学生の行動を制止することができなかった。
 c. 常軌を逸脱した飲酒
 事件の直前に行われた懇親会では,ゲーム感覚で飲酒が行われていた。また,集団の中で酒を勧められると断りにくいという雰囲気があったために,強要に近いかたちで多量の飲酒が行われ,結果として学生たちから適切な判断力が失われた状況で今回の事件が起こった。
2.再発防止の基本方針
 a. 性倫理と性暴力に関する学生の認識を高める
 b. 人権意識を高める
 c. 社会性の向上のため対人関係能力を育成する
 d. 飲酒に関する指導を徹底する
 e. きめ細かな指導体制を確立する

◎危機管理体制の問題点(略)
◎責任の所在(略)

京都教育大学学生の不祥事に係る再発防止と危機管理体制改善の取組

国立大学法人 京都教育大学

1.事件の再発防止に向けて
 1-1. 再発防止対策の基本方針(「学生の不祥事に係る報告書」の提案)
 1-2.モラル・人権意識向上教育推進委員会の設置(略)

 1-3.再発防止策
  a. 入学時に行動規範に関する誓約書を提出させる
  b. 性教育および倫理観,人権意識,社会規範の遵守の意識を高めるカリキュラムを充実する
  c. 意識向上を図るための演習形式の授業を取り入れる
  d. 上記b.およびc.のプログラムを全学を挙げて遂行するための教員向け研修を行う
  e. 社会的規範性に関わる科目の成績を「履修カルテ」の評価に加える
  f. 対人関係能力の向上を図る取組を行う
  g. 飲酒をはじめとする学生生活面での指導を徹底する
  h. きめ細かな指導体制を確立し,体育領域専攻の入学者選抜方法を改善する
2.管理体制の改善
 a. 事前の危機調査の実施
 b. 全教職員・役員に対する危機管理意識の啓発
 c. 危機管理マニュアルの整備
 d. 広報体制の拡充
 e. 危機発生時の意思決定手順の整備
 f. 危機発生時における学内組織の責任・権限の明確化
 g. 顧問弁護士等,専門家の活用
 h. 学生に対する懲戒規定等の整備
3.学長辞任と理事・教員への問責(略)

4.対策の実施と評価(略)

http://www.kyokyo-u.ac.jp/KOUHOU/topics/0806houkoku.pdf

体育学科とその学生・教員、スポーツ青年の人格の「暴力的ファッショ的体質」

教員養成大学の体育学科に入学し・卒業する「体育エリート」な青年たち

体育学は人の精神的・肉体的な全面発達を学び深める学科であるはずなのに、「とりわけ保健体育科教育専攻,スポーツ・健康マネジメント専攻,および体育領域専攻では指導の徹底が図られていなかった」ということだそうだ。
そして彼ら(加害者の一部)はもともと「同調性」「集団性」の傾向が強く、違法行為に対する判断力,批判力を備えた者が(加害者全員中)だれもいなかった。また「目撃者もいたが,加害学生の行動を制止することができなかった」ということだから、この報告書によれば、ほとんど体育学科の学生たちは、そして卒業しても衆・愚であって、「犯罪もみんなで犯せば怖くない」者と「見て見ぬ振り上手」な者ばかりであったということである。
それは、大学のせいというよりは、学生自身の成育歴に問題があったということだろう。学校教育において、「体育・スポーツ」でよい成績をとり、自らもそれが好きで優れているという自覚のある青年たち、スポーツ系のクラブに入ってそれなりの役割を果たしたり成績を残したりしてきた青年たちは、そういう青年たちなのだ、ということが「事実」として受け止められなければならない。

少年スポーツ団の指導者たち、「体育振興」のオトナたち

これは、体育やスポーツに関わる人たち、青少年のスポーツによる育成に関わる人たちは、本当に心底自分たちの日常を丁寧に点検しなければならない。なぜなら、自分たちが学校のクラブで、地域のスポーツクラブで「健全」に「たくましく」育てているはずの子どもたちは、むやみに「つるみ」やすく、犯罪でも暴力でも、それへの衝動に「抑制」が効かず、法に逆らう者よりも自分たちの集団に逆らう者に対して、「自覚なく」意地悪で凶暴であり、自分より「強い」者にはへつらってスポーツ根性や技術を披露する、そういう青年を育成している可能性がある、ということがまさに「教員養成」の大学でまたもや証明されたからである。
表題にも挙げたが、非難を恐れず極論すれば、日本の「体育・スポーツ」は批判力のない「暴力的ファッショ的」人格しか育成しえていないのである。

暴力的な諸関係

また、このことは性関係のみならず、当然にも性以外の他者との関係に現れており、それはたとえば「集団の中で酒を勧められると断りにくいという雰囲気があったために,強要に近いかたちで多量の飲酒が行われ」という事態が、まったく抵抗なく容易に出来する仕組みである。
更には、他者との関係のみならず、自己関係もゆがむわけで、これが「飲酒」ではなく「大麻覚せい剤」でも同じように大量に発生しうる。

なんだか気になる点

管理と選抜

これに対して大学も教育的に対応するわけだが、どうも、「h. きめ細かな指導体制を確立し,体育領域専攻の入学者選抜方法を改善する」というのが少し引っかかる。
「管理を強化する」、「危険な奴は初めから排除する」ということだろうか。この文字面だけからはなんとも「邪推」しか出てこないが。

「性」とは「性行為」ですか

もう一つは、「a. 性倫理と性暴力に関する学生の認識の欠如……加害学生には性行為が両性の対等で健全な関係に基づく合意を前提として行われなければならないという認識が希薄であった。また,自分たちの行った行為が暴力であり,女子学生に多大な被害を与えたという認識が全くなかった。」これに対しては「b. 性教育および倫理観,人権意識,社会規範の遵守の意識を高めるカリキュラムを充実する」という。
まあ、「性行為が……行われなければならない」とか「性行為が……合意を前提として……」とかいう書き方が、をひたすらセックスしたいという「リビドー」を「性倫理」が抑圧監督するという感じがするのだが、「性倫理」とは「性交衝動」に関してのみ言われることなのだろうか。
また、「合意」さえあれば、飲み会の行われている隣の部屋で、あるいは宴会場で複数の「性行為」を「やましさ」なく行なっても良い、という風に裏読みできるのではなかろうか。この程度の「性」についての認識だから、「加害者」たちは「合意があった」から問題ないのだと言ったのではなかったか。


もちろんそれとは別に「対人関係能力」における問題と、その対応も挙げてはあるので、ちょっと揚げ足取りなのかもしれないが。
「性」とは「人生」的なものでありかつ、肉体も精神も含む統体としての「人格」のことであって(それは同時に「個」ではなくて「社会的」であり、時には直接に「社会」である。たとえば社会に性差別の根強いといわれるインド・パキスタンバングラデシュなどで問題になっている婦人への暴力や虐待などを想起せよ)、「性行為」とか「性を意識すること」(のみ)をことさら取り上げるのは、事柄を一面化するのではないか、という危惧である。
「性行為」「セックス」がノン・アルコールでドライに合意されれば、それが「健全」と言えるのか。売春や買春はいかに批判され・排除されるのか。「性」に関して、法とその周辺のモラルや「ベカラズ集」を暗記させても(それがこの事態に至っては無意味とは言わないが)、健全な「性」の担い手には「成長」しはしない。夫婦間で「すら」強姦・性暴力はあるのであって、今日においては「性教育」のゴールは「健全な家族」なのかもしれない。いずれにしも「性教育」というものは、何か柱につながれた犬のように、「性行為」や「性器」につながれた範囲内で終わってしまうような教育ではないはずだ。
性教育」というものが、「社会規範の遵守」という題目と結び付けられて「ベカラズ集」と「人の逆鱗としての人権」「性病と妊娠に関する知識」(それらは不可欠ではあろうが)で成り立つと考えられているとすると、それは「人格の完成」を目指す「性教育」ではなく「買春ツアーハンドブック」のような「ハウツー」伝授になってしまうのではないだろうか。
もちろん、そのようなものではないことを願うし、残念ながら私は「性教育」について何がしかを語れるような知識や能力は持ち合わせていない。

学生の不祥事は「危機」なのか

前半略してある「危機管理体制の問題点」は後半の「管理体制の改善」で対応しているのだが、そもそも学生の不祥事って「危機」なのだろうか。「危機」だとして誰が誰のために何を「危機」として認識するんだろうか。
学生が問題を起こしたときに、外聞・体裁に素早く配慮できる体制……?
まあ、組織の管理というのは難しいものだが……。
例えば、大学の教員か職員が学生等の個人情報をパソコンか何かで持ち出して、飲酒運転で人身事故を起こした。同乗していた「知人」は不倫の相手でしかも学生。その事故の際「個人情報」が行方不明だと判明……。
これって大学の「危機」やろか。危機かもね。誰が危機だろうか。学長は危機かもね。誰のために危機だろうか。学生かなぁ。「あんな大学」って学生の名誉の危機かもね。ああ、そんなことになったらどうしていいかわかんないや。