▼性の対象化、人格の対象化

「対象化」とは、その「対象」について自覚的に振舞うことができる、というふうに理解しておこう。
例えば、「食欲」というものがその人物が幼すぎるがゆえに、人格というか人物、つまり自分と切り離して考えたり捉えなおしたりすることができないようなことを考えてみよう。
そういう場合は「空腹」と「食欲」とは未分化だろうし、感覚的に「食べられる」と思われるものが与えられたら「全力で」食べる、というように考える。ところがこれを「対象化」することができると、好き嫌いもあるし、嫌いだが必要だから食べよう、健康のために食べようということになる。そして嫌いな物でも「自覚的」にコントロールして食べようとする。
発達心理学の勉強はしていないので、正しい例示かどうかは知らないし、正しいとしても偶然である。


さて、人は自分自身を対象化することができる。自分の人生を思い描き、自分はどんな人物になろうかと目的を持って、その目的に沿っていると思われるような自己形成の努力を行なうことができる。
またその能力は、常に衝動的に法律に従ったり逆らったりのではなく、自覚的に法に従ったり逆らったりすることができる。
「性」も同様であり、自分のセクシュアリティを「性衝動」から切り離して、自分を「性的」に造形し、外見を整え、生殖を含めた性的能力や機能を発揮することができる。

   かつてはデブで陰キャラでモテモテ人生とは縁のない人間でした。
   しかし、ダイエット!!
   そして今は、痩せてそこそこモテモテな人生を送っています。

   ■モテモテ人生の想像■

   そして、ダイエットには挑戦したものの挫折、失敗した人もいるのではない
   でしょうか??
   なぜ挫折したのか??
   それは、あなたが痩せることを目的としているからです。

   では、何を目的とするのか??
   それは、モテることです!!
   モテる自分を想像してください。
   最高に気持ちいいことに気づくはずです!!
   その最高に気持ちいいことを忘れないでください!!  
   そしたら、少々きつくても挫折しません!!
   あなたはモテて美人な彼女、男前な彼氏を手に入れるのです!!
   たくさんの人から告白されます!!
   チヤホヤされます!!
   ナンパされます!!(逆ナンされます!!)
   合コンで連絡先聞かれます!!
   毎晩…できます!!
   モテモテ人生に飛び込みましょう!!

http://archive.mag2.com/0000251260/index.html

こんな具合である。この引用がどこまで「ホンモノ」か別として、ありうる思想ではある。
「モテるために自分をどう見せるか」ということの行き着く先は何か。どのような「性的自己」が目標にすえられているか、省みることが必要だ。



地縁・血縁というものが希薄になり、あるいは崩壊し、「イエ」の力がなくなるにつれ、「性」はおおっぴらに商品として取り扱われるようになった。論理的には「性的退廃」というものも、こうした「性」の「解放」によって社会にとって目立つようになってきただろうし、量的にも増えたのかもしれない。
ただし、以前から「売春」というものはあったので、昔は潔癖だったとかいうことはできないだろう。
いずれにしても、売春をするような境遇に置かれた者以外は、女性の「性」はたぶん「イエ」に閉じ込められていたのではなかろうか。風俗としてはそのようなことが正しく貞しいものとされていただろう。


「イエ」から解放された「性」は、商業化やその反動としての「蔑視」や政治家その他有名人による「性的関係」の公然たる裏切りによって、なかなか「一夫一婦制」の枠内に落ち着いていない。「一夫一婦制」も単に制度的なものと理解され、単に「重婚の禁止」「一夫多妻・多夫一妻・多夫多妻の禁止」というようにしか流通していない感が有る。
まあ、そうした中で、自分の「性」性、つまり「女性性」や「男性性」をどのように形成していくのかということが、ゆがんだり失敗したりしている、ということが「強姦事件」を起こしても・見ても・起こされても、「傷つけた」「傷つけられた」「犯罪を犯した」という感覚が生まれないことの一因になっているのではなかろうか。
つまり「強姦」しておいて、その犯罪性や暴力性に気づかないというのは、当事者の「性的な自己」というものが、そのように自覚されている=「対象化」されているからではないか、と思われるのである。


一方では、「人格」=「人生」も不当な労働条件で販売しなければ、就職そのものがなかったり、「働けるのに働かない」と非難されたり、自分の「人間性」というものをゆがめなければ生きていけないという現実も有る。
「性」をひさがねば生きていけない人生はあっただろうが、今ではそうではないはずである。しかるに「性」というものを人生から簡単に切り離して、その「衝動」のみを満足させる(しかも相手もそれを望んでいると思っている場合もある)というのは、やはり日本の性教育は失敗しているのだろう。

「人はなぜセックスをするのか」

それは性教育において、性器と生殖と伝染病を教えはしても、「人はなぜセックスをするのか」ということをじっくり考えたり「味わったり」していないからではないだろうか。


だいたい、三つの側面が挙げられる。「生殖」「快感」「愛」である。それは正しいだろう。しかし、日本において「愛」は土着の概念ではなく、「愛」はごみ箱の中にすら溢れていて、本当に「愛」とは何かを語れる人はいるのですかと聞かねばならない。
本の学校の先生で、性的な「愛」というものを上手に(発達段階に応じて)子どもに教えることのできる人はどのくらいいるだろうか。しかもそれは教員の職人的な個人技ではなく学校群としてできなければならないのである。
家庭科の先生と保健体育の先生が「性」について微妙に違うことを教えてしまう、ということでは困るのだ。日本で「性」をとりまく状況がどうなっているのか、よくよく認識を一致させる必要がある。
性教育、それは日常の「性」的情報の洪水の流れに逆らう、あるいは流れをつっきるような「イデオロギー闘争」になるはずではないか。