▼ひとつの排他主義。排他主義を排するのも「排他」形態が不可避なのか。

自分の意見を主張すること

http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070322/p1
を拝読。
前回の東京都知事選挙の直前とか、今とかでも良いのだけれど、東京に乗り込んで石原都知事の悪口なり批判なりを声高に地方の方言でまくし立てる会話をしたらどうだろうかとアテハメ想像してみる。
バスや電車の中はそれなりの確立で石原に投票した(投票する)東京の人が多かろう。

私のすぐ後ろの席に男性の二人連れが乗っていた。乗るときにちらっと見たが、一人はかなりオッサンでどうやら出張か何かで東京に来ている人らしい。もう一人は若くて、おそらくそのオッサンの案内役の地元の人。

そのオッサンが連れを相手に何を喋っているかというと「東京都がいかにダメか」ということを熱心に説いているのだった。しかもかなり大声で。

…あなたが今乗っている乗り物がまさに都営なんですが。
…そしてあなた以外の乗客はおそらく全員東京都の人なんですが。

「東京はダメと言うな」ということでも「そういう話題はけしからん」ということでも「よそ者がその土地について語るな」ということでもありません。プライベートな場とか、しかるべき相手と場所(聞き手も意見を言えるような)で「東京都はこういうところが足りない」という話をするのはまったくかまわないと思う。場をわきまえて話せよっつーマナーの話です。

という具合か。
kmizusawaさんの意見には概ね同感。
で、バスとかでなくてblogとか、ネット上の掲示だったらどうなのだろうか。
……自重して自戒すべきなのだろうか。……?


左右の全体主義を排する排他主義

自分の何かの快楽のために、誰かを痛めつけることを専らにするようなblogでなければ、何かや誰かに対する批判的な文言に溢れていても、「悪意ある」とか「悪質な」などという印象は持たない場合が多い。自分と違う結論を持った主張であっても、その主張の根拠が自分に分かるものであれば、そんなに不愉快にはなりはしないものだ(無感想という訳にはいかないけれど)。

選挙をめぐる色々な悪質でない・むしろ良心的と思える人たちの発言には、今回の都知事選では特にうんざりさせられることが多い。

言いたいことは
モジモジ君の日記。みたいな。■東京都知事選と「名護で考える」
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070323/p1
に賛同、同じということであって、誰かと喧嘩したいというわけではない。
でも、例えば下の言説は、もはや暴言だと私には思われる。
少し調べれば、以下の囲みが誰の文章をモトにしたものかは分かると思うけれど、当該の人物がどうこう、というより一つの典型として紹介させてもらう。

 くだらない左翼運動やデモ行進などで時間をつぶしているひとたちは、それを停止して、反イシハラ・反右翼の行動をしてくれ。世をうらみながら、長時間インターネットでぐだぐだ落書きをしているひとたちは、そんな時間があるなら、反イシハラ・反右翼の行動をしてくれ。
 これからの、東京都知事選(反石原票を一本化しなければならぬ。共産党は独自候補を辞退して頂きたい。こころある共産党の方々は、反石原の一本化をできないかぎりは、共産党を離党してもらいたい。

このお方は、例えばこころあるソウカ学会員には呼びかけないで、こころある共産党員に離党を呼びかけたりしている。
学会員が石原都政の下どんなつましい暮らしをしていようが、はじめから対象外なのか、あるいは呼びかけ対象には含まれているが取り立てて声をかけるというほどの偏屈でもないという認識なのだろう。か。
で、このお方が言う背景としての社会観・社会思想観としては

 右派が理想とする大日本民族国家=超生命体の社会も、左派が理想とする「各人は万人のため、万人は各人のため」の小学校学級会的な社会も、一言で言えば、右翼も左翼も全体主義なのだ。それは、最悪の社会である。

という社民らしき人々の一部やアナキストらしき人々の一部から聞かされてきたそれであるから、珍しいというわけでもない。


大衆運動や市民運動を「くだらない」と蔑視して、同じ側のグループであっても気に入らない勢力には宗旨替えを要求し、ただただ選挙結果の瞬間のみを絶対視するような人は前々からいるのは知ってはいる。
こうした人の言説はどういうわけか、日頃の口ぶりとは違って、モノスゴイ排他的で攻撃的で傲慢で少数派のくせに唯我独尊なのが不思議である。
最近、そう感じ・思うのは自分だけではないと分かってきたので少しホッとしている。

どこで・どのように演説するか

黒川さんの、きょうも歩く「3/18 候補者へのモラルハラスメント
http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2007/03/318_2f2a.html
を拝読。


冒頭のkmizusawaさんの記事とは対照的に、こちらは言論弾圧された話。これまたよくあるケース。


言論は自由である。
kmizusawaさん記事中のオッサンも街頭演説なら良かったのかも(演説の目的が不明だけれど)。バスや公共の乗り物の中での私語も、バス内での演説を宣言すればよいというのではなく、また、偶々(たまたま)地元福岡(或いは東京)の話だから耳についたというより、大声で会話するということに問題があるのだろう。
真ん中のお方に代表されるケースはそうしてみると、この記事を書き始めた頃に想定していた冒頭記事との関連はあまりないか。


記入の窓を開いて1時間以上電話に出たりして中断したりしたので、何が言いたかったか分からなくなってしまいました。