▼道教的な自然体験讃歌……自然崇拝派

社会教育 2004−4(通巻694号)掲載分,初期提出原稿
自然学校の持つ教育力と福祉力  〜自然学校の何が子どもたちを育てるのか〜
あそあそ自然学校代表
谷口新一
http://www.asoaso.jp/x/soci-edu.htm

「単なるオトナのパターナリズム」の危険性

●はじめに

……なぜ農業や自然が子どもにとっていいのか、クリアになっていない面もある。また、平成10年度に当時の文部省が実施した「子どもの体験活動等に関するアンケート調査」において、「自然体験が豊富な子どもほど道徳観や正義感が強い」という調査結果となっているが、これは単にクロス集計によりカイ二乗分析等において有意な関係があるということであり道徳観や正義感を向上させるために自然体験が必要であるまたは推奨するというだけでは、子どもたちを当事者として捉えた場合には疑問のあるところである自然体験が不足しているから必要という論拠では、大人側の思惑の働いた単なるパターナリズムに陥ってしまう可能性がある……

これこれ!
こういう意見が自然体験関係者から提出されたのを探していた。

道教的な言説が単なるアンケート集計に命を与える?

せっかくの批判的なお言葉だったのだが、批判的検討ということではなく、なんだか老子風(?)の補強がなされてしまっている。残念!
ちなみに、野外活動や自然体験活動自体は私自身は肯定的な感情を持っている。しかしそれとこれとは別のことである。違和感の強い部分を抜粋。

……

●自然学校の三つの力

あそあそ自然学校は“自然体験”を具体的プログラムとしているわけであるが、農生活空間の持つ教育力・福祉力の活用が特徴となっている。

一、自然体験

自然体験では、子どもたちは自然のリアリティに触れることができる。……竹がどんな環境で育っているか、どんな葉っぱかなど五感で体験できる。自然そして自然の摂理には嘘がない。嘘がない絶対的な真理に触れることで、何の条件もつけず自分の存在がかけがえのない大切な存在であるという“自己肯定感”も育まれるし、考える力の基層となりうる。自然は時として人間の生命を脅かすほど猛威を振るうことがあるが、脅威に触れることで畏敬の心が育まれ、決して強制ではない人間的な謙虚さが育つ謙虚さは成長の糧であり、物事を見つめ見極める力の源となる。また、……自然の中の退屈さは、子ども自身が主体的に遊びはじめるきっかけにもなる。 “納得”ということがなければ、人の思考は停止してしまう。納得が創造の必要条件とすれば、自然の摂理ほど納得できるものはない。自然体験は、自然の摂理による納得→考えるというプロセスを通して、子どもたちの主体性を育てる。

二、社会体験

異学年の交流は、高学年の子どもにとっては低学年を思いやる気持ちが育ち“自己有用感”が育まれるし、低学年の子どもにとっては高学年の子どもたちを見て、自己決定の当事者となる貴重なチャンスとなっている。

三、ものづくり体験

農業はやっただけリターンのある仕事である。お天道さまにもよるが、さぼれば減るし、頑張れば増える。子どもにとって農業は、シビアだけれども“当たり前”、嘘をつかない安心感のある相手である。自然の中では、 “インチキ”はインチキとして顕在化する。自然の中の当たり前に触れることが道徳観や正義感の源となっているのではないだろうか

二と三は人間関係上、共時的・経時的に「自己有用感」が得られるということが強調されている。その可能性については否定しないし、活動の組織の際は積極的に活用されるべきであろう。

人間を抱いて・罰する自然?

なんとも……。

●自然学校と児童福祉

子どもは“逸脱のエネルギー”を本来持っている。逸脱を認めることが子どもを認めることにつながる。子どもは、逸脱という“自分らしさ”を認められることで初めて、親や大人や地域社会とコミュニケーションを成立させ、社会性を自ら発見していく。コミュニケーションでしか社会性を身につけられない。子どもに社会性を身につけてほしいとすれば、いかにコミュニケーションを成立させるかを真摯に謙虚に考えることが必要である。コミュニケーションとは対等なものである。対等性を持つために重要なことは、子どもの権利を学ぶことである。

また、“非行”は“抑止”によって起こるケースが多い。抑止は、親や教師が子どもの権利を理解していないから起こるケースが多い。非行防止のためには、親や教師が子どもの権利を理解することが必要である。逸脱は自己決定である。自己決定は子どもの感性を高める。逸脱は社会性を身につける子どもの成長過程として重要であるが、自分の逸脱に間違いがあればそれを教えてくれる絶対的なものも一方では必要である。自然には摂理があり、正しさがある。自然は、逸脱する場としては最高の場である。非行や不登校ひきこもりなど、社会に不信感を持つ子どもも含め、どんな子どもにとってもそれぞれのユニークで多元的な逸脱を許容し、逸脱後の新たな示唆を与えてくれるのが自然の正しさであると思う

落ち着くところは、やっぱり「偉大な自然」っぽい。

●まとめ

自然体験が子どもにいいのは、何者にも左右されない自然の持つ絶対的な摂理(正しさ)に触れることによると考える。正しさということが、考える力という前向きな力を育むためにも重要であるし、また、子どもの人権にかかわるような追いつめられたいわば後ろ向きなケースにおいても、自然の正しさから育まれた自己肯定感や自己有用感という体験知があれば、いざという時に生きる力を発揮することが期待できる。

感想

残念です。