▼資料:大日本青年団など

いずれも抜粋。
あとで読んだり、関連して調べたりするために。

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青年団・青年同盟・学徒


1916.1.1 青年団中央報徳会に全国青年団の指導連絡機関として青年部設置.11.3独立して青年団中央部と改称.
1918.8.22 青年団鳥取市聯合青年団,市民的政治結社鳥取市青年愛市団〉に改組し,電気市営運動を展開.この前後数年間に各地に市民政社簇出.
1919.11.- 仏教系妹尾義郎ら,大日本日蓮主義青年団結成.
1919.11.2 青年団立憲青年党・全国青年団体30余と学生有志を糾合した青年改造聯盟発会.綱領は普選実施,労働者団結権承認等.
1923.12.1 青年同盟全国水平社青年同盟創立大会.’24.2.15機関誌《選民》創刊.
1923.4.上 青年同盟日本共産青年同盟創立.
1925.1.- 青年同盟東京朝鮮無産青年同盟会結成(’26年11月東京朝鮮青年同盟会と改称).3.−女性団体三月会結成.’27.1.16在東京朝鮮女子青年同盟に改組.
1925.11.1 青年同盟東京無産青年同盟創立大会.
1925.11.23青年団長野県下伊那青年団・政治研究会伊那支部,軍事教育反対演説会.
1925.4.15 青年団大日本聯合青年団発団式.
1925.5.7 青年同盟全国水平社第4回大会(〜5.8),規約改正(基礎組織確立・民主集中制).中央委員会議長松本治一郎,全水青年同盟の主導権確立.
1925.7.- 青年同盟この頃,日本共産青年同盟(ユース)成立.責任者北浦千太郎.
1925.9.18 青年同盟全水青年同盟2周年大会,組織解体・全国水平社無産者同盟創立・全国無産青年同盟参加を決定.10.18アナ系は全国水平社青年聯盟全国協議会開催.
1926.11.13青年団無産青年団体協議会.’27.2.13全国無産青年団体創立全国協議会.
1926.2.11 青年団在郷軍人会・青年団右翼団体など,第1回建国祭実施(東京,3万人).同日,赤尾敏ら,建国会設立.
1926.8.1 青年同盟全日本無産青年同盟創立大会.労農党支持など決定.委員長片山久.
1927.4.29 青年団大日本聯合女子青年団創立(全国の処女会を統一).10.10発会式.
1927.8.- 青年同盟日本共産青年同盟関西地方委員会確立.12.−関東地方委員会確立.
1928.1.- 青年団長野県聯合青年団,青年訓練所の廃止を決議.
1928.4.10 青年同盟労働農民党,評議会,全日本無産青年同盟に解散命令(4・10解散命令).
1928.4.20 青年同盟新青年同盟組織準備会結成.7.−機関紙《無産青年》発行.
1929.1.20 青年同盟国労農青年同盟結成.
1930.7.31 青年団東京府,帝都非常変災時防護委員会結成.非常時に郷軍・消防団青年団を動員するため.
1931.4.5 仏教系妹尾義郎ら,新興仏教青年同盟を結成.
1931.5.5 青年同盟共青,〈新学生テーゼ〉発表,学内大衆闘争の重視を指示.
1932.7.17 青年同盟国家社会主義青年同盟結成.
1933.1.- 青年団大日本聯合婦人会・女子青年団共催で家庭生活指導者講習会.農村の生活改善を指導.4.−帝都非常時女性訓練(防空)運動展開.
1934.8.7 青年同盟大日本青年同盟を脱退した竹本信一ら,維新会結成.
1936.12.7 仏教系新興仏教青年同盟委員長妹尾義郎,労働雑誌社の件で検挙.
1937.5.7 仏教系新興仏教青年同盟,第7回全国大会,軍備全廃を理想とする平和主義を強調する運動方針決定.以後弾圧が強化される.10.20幹部検挙.
1937.9.21 青年団女子義勇隊結成運動開始.大日本聯合婦人会・同女子青年団主催.
1939.5.22 学徒〈青少年学徒ニ賜ハリタル勅語〉出される.
1941.1.16 青年団大日本青少年団結成.大日本青年団・大日本聯合女子青年団・大日本少年団聯盟・帝国少年団協会の統合.
1943学徒中等学校以上学徒勤労動員延べ1億5千万人.
1943.12.1 学徒第1回学徒出陣.
1943.6.25 学徒閣議,学徒戦時動員体制確立要綱決定.10.2在学徴集延期臨時特例(学生・生徒の徴兵猶予廃止).
1944.2.25 学徒閣議,決戦非常措置要綱決定(学徒動員の徹底,国民勤労体制の刷新等).
1944.2.25 学徒文部省,食糧増産に学徒500万人動員を決定.
1944.3.7 学徒閣議,〈学徒勤労動員〉を通年化.
1944.8.23 学徒学徒勤労令・女子挺身勤労令,各公布・施行.挺身隊を義務制に.
1945.6.16青年団大日本青少年団解散.
1945.10.30学徒第二早稲田高等学院学生代表,文部省に学徒兵優先入学反対を要望.10.−北大・京大でも同様の運動.
1945.12.5 青年団日本青年館新青年団育成のため府県支部連合会を開催.’46.2.22長野県連合青年団結成.
1945.8.15 学徒終戦時の勤労動員数,被徴用616万4156人,学徒動員192万7379人,女子挺身隊47万2573人,朝鮮人32万2890人,中国人3万4000人,−般従業員418万3271人,計1310万4269人.
1945.8.16 学徒文部・厚生両省,学徒動員解除を通牒.
1946.2.22 青年団長野県連合青年団結成式.以後各府県の連合青年団も発足.
1946.6.20 青年同盟東京・築地魚市場で全国漁村青年同盟全国大会.飢餓突破救国運動の即時展開などを決議.
1948.6.19 学徒衆・参両院,教育勅語軍人勅諭・戊申詔書・青少年学徒に賜わりたる勅語の失効確認・排除に関する決議案を可決.
1952.4.30 学徒戦傷病者戦没者遺族等援護法公布.原爆投下時に出動し死亡した動員学徒・徴用工・女子挺身隊員らの遺族に弔慰金を支給.

青年団

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60 大原社会問題研究所雑誌 No.513/2001.8
書 評 と 紹 介

北河賢三著『戦後の出発――文化運動・青年団・戦争未亡人』
評者:松尾 純子
 この時期の文化運動全般の特徴が描き出された。
 要点を挙げれば次のようになる。
 担い手という点から文化運動を整理すれば,①青年団・婦人会,②地方文化人主導の地域の文化団体,③社会教育行政機関・社会教育団体,④労働組合文化部・職場サークルとなる。①〜③には疎開文化人がかかわりをもつことが少なくなかった。
 これまで,文化運動を指導したのは,戦前・戦中の「抵抗派」知識人・文化人であるかのように考えられてきた。だが,それは一部に過ぎず,大半は戦中の翼賛文化運動とかかわりをもっていた。
 地域の青年たちが文化団体を組織し活動した根底には,「知りたい」という強い思いがあった。死ぬことばかり考えていた自分が,今後どう生きたらよいのかといったことをはじめとして,「昏迷」からの脱出がめざされた。 また,美しいもの・「文化」的なものへの渇望や憧れがあった。
 つまり文化運動とは,敗戦後の混沌のなかで拠り所を見失った人々が自己を立て直し,“世界”を把握するための指針を求める,意識的・無意識的な“運動”だった。したがってそれは,なかば不可避的に,試行錯誤の連続と焦点の定まらない総花的なものになった。革命から秩序維持まで,さまざまな潮流が混在し,多様さとあいまいさを含みながらも,昂揚が見られたところに特徴があったといえる。
 Ⅱ章では,従来の青年団史や社会教育史とは視点を変えた形で,青年団が取り上げられている。
……長野県下伊那地方青年団の資料だが,非常に丹念な分析がなされ,論点は多岐にわたる。
以下はその要約である。
 戦争末期の青年団は戦争や銃後活動への動員により,青年団固有の事業は著しく制限された。青年団が担ってきた祭礼の行事や娯楽は,人手不足と「時局」のために中絶した。一方で「慰安」重視から演芸会がおこなわれ,例年にはない「やくざもの」が演じられる場合もあった。
戦時期の青年団は,大日本青少年団に統合されていた。1945年5月大日本学徒隊,6月国民義勇隊の結成にともない,戦時青年団は解体した。しかし,地域青年団の組織は多くの場合存続した。
 戦争末期においてなお戦意高く,敗戦の報をほぼ一様に衝撃的に受けとめたのが,空襲の被害を被らなかった農村部の青年に顕著な傾向であった。敗戦後,同世代の仲間に多くの戦死者を持つ青年には「英霊に済まぬ」との心情が強く,心にわだかまり続けた。敗戦と占領政策のもとで否定の対象となり,しばしば「戦犯」呼ばわりされた復員者たちも,世間の「冷淡な仕打」に反感を募らせた。彼らにとって,侵略戦争であったと認識することと,その戦争の戦死者や元兵士への態度・処遇や向き合い方とは別問題だった。青年たちには,自分たちを戦争に駆り立てた上の世代への戦後の態度に対する反発もあった。このように,敗戦後の「民衆意識」には,大きな亀裂があった。
 以上の確執・葛藤,反発とともに青年たちの戦後意識を特徴づけるのが,「虚脱」とニヒリズムである。それらは上の世代には退嬰的態度と映ったが,そこにある自省的態度と懐疑精神こそは,「だまされた」という怨恨感情にとどまらない可能性をはらむ,戦争と敗戦の経験から獲得した,貴重な戦後精神だった。虚脱と不信と懐疑のなかで生まれた批判の眼が,戦後の青年たちの運動を支える原動力の一つとなり,その後のかれらの生活態度と生き方を規定した。その意味で,戦後の「暗部」にこそ戦後精神の核心があった。
 戦後青年団はさしあたり戦前型青年団への復帰という形をとった。組織化の過程で,綱領の「国体護持」の語は短期間で消えたが,戦前から続く組織面の網羅主義・修養主義・郷土主義・祭祀を中心にすえるあり方などが問題にされることはあまりなく,後に問題化した。

遺族と未亡人

上の続き

 Ⅲ章では,遺族運動と未亡人運動の交錯および戦争未亡人の戦後意識が検討されている。
 敗戦と占領のもとで,戦争未亡人にとって,戦後は一面では戦前の「英霊の妻」からの解放の始まりであるとともに,苦難の始まりであった。遺族運動は,彼女らを中心とする戦争犠牲者遺族同盟組織化の動きから始まった。
未亡人会の組織化は遅れた。全国188万人の未亡人の3割を占める戦争未亡人が組織化を主導した。未成年の子どもや親を抱えた21〜40歳の未亡人(その約半数が戦争未亡人)が,統計的に見ても最底辺の生活を余儀なくされた。未亡人会は,切実な生活上の必要と互いの境遇への共感から相談・協力する過程で生まれた。しかし,多くの場合,その置かれた状況から,未亡人自身による組織的活動は困難であり,県や村の指示・指導で組織されたケースも少なくない。
 日本遺族厚生連盟は,未亡人問題の深刻さが指摘され各地で運動が起こるとこれに対応せざるを得なくなり,婦人部設置を決めた。連盟は戦争未亡人を多く抱え,対外的にも,とりわけGHQとの交渉において未亡人・遺児問題を前面に押し出す必要があった。だが男性中心の遺族会が戦争未亡人の窮状を救うために積極的に動くことはまずなく,むしろ「嫁は他人」と冷淡であり,戦前以来の「忍従」を求め抑圧的な場合さえ少なくなく,彼女らは婦人部に属しながら,遺族会とは別に未亡人会を組織して,母子家庭の苦しい生活を救済するための活動をおこなう場合もあった。戦争犠牲者遺族同盟を支援した同胞援護会は未亡人会の組織化を支援した。遺族運動や未亡人運動は当初の労働運動のように奨励された運動ではなく,彼女らにとっては運動を起こすこと自体が至難であったが,運動はそれだけ必死なものとなった。
 敗戦後,カストリ雑誌のネタから小説の題材,各種調査などで未亡人の再婚問題は頻繁に取り上げられた。婦人雑誌などが未亡人の生活や訴えを取り上げるのは1948年から,実態調査の報告書が出されるのは1949,50年からである。戦争未亡人の手記では「忘れられ」,「黙殺され」,「圧迫」された存在として,自己の存在が意識され,国家・社会に対する呪詛の思いは強い。組織労働者と自分たちの境涯を引き比べた訴えも少なくない。再婚問題をめぐる世間の未亡人観と当人たちの意識とのギャップや周囲の抑圧から,胸の内を訴えることさえできない場合さえしばしばあった。
 遺族への処遇に対する不満と「犬死」論への抵抗感は,戦争未亡人のなかにも強くあった。それは,すべての戦死を「名誉の戦死」−「犬死」という機軸でとらえる近代国民国家の「常識」を超えた,夫の戦死を「無」にしたくないという想いであり,強い戦争否定の感情とともに普遍的な平和的生存権の思想に結びつく可能性を含んでいた。