▼女性は機械、労働者は家畜、老人は枯れ木──認識の疎外と人格概念──

先日の「女性は機械、装置」という発言はどんどん追求していただきたい。こうした発言がさしたる批判も非難もされず、結果として容認されるのはよろしくない。
政治家は道徳的権威がなければならない、と教育再生会議でも言われている。

何が問題なのか

こうした「性」や「子ども」「国民」を、その機能や能力の一面に解消させ「疎外」せしめた発言が気に障るのは何か。
公務員・政治家ということを考えれば、その立場にそぐわない、と言えそうである。それだけだろうか。


今回の柳沢厚生労働大臣の「女性は産む機械、装置」発言への反応について、検索しだすときりがないので、主に国会議員関連中心に拾ってみた。もちろん、網羅ではないし、コメントは次々出るだろう。
まとめると要点は次のようになろうか。

  • 女性を機械・装置視すること、それ自体(がけしからん)
  • 少子化対策として的外れ
  • 少子化対策の遅れへの無反省
  • 少子化の責任を女性に押し付ける
  • 出産への女性性の一面化が、女性の自己決定権の侵害を容認。干渉。
  • 出産への女性性の一面化によって、肉体的・生理的に出産できない女性の女性性・人格の否定。蔑視、あるいはそれらの容認
  • 出産への女性性の一面化によって、経済的・社会的に出産できない女性の女性性・人格の否定。蔑視、あるいはそれらの容認
  • 出産(・子育て)を(少子化対策という)国策に従属させる国家主義的発想(翻って個人の人権の軽視・侵害)
  • 女性を(機能は何であれ)機械・装置視した発言、それ自体が女性の人格を認めていないことの証


「人権侵害」ということが分からない方に対しては、例えば次のように言えばどうだろうか。
不幸にも病気で子宮や卵巣をとってしまった人に「あなたは、もう女性ではありませんね」と言うだろうか、と。
柳沢大臣は、そういう女性に対しては「あなたは産めないから女性ではない」と言ったのと同一なのである。もっと悪い言いなら「女性ですらない」と。
「『機械って言っちゃ申し訳ないけど』『機械って言ってごめんなさいね』との言葉を挟みながら」とのことだが、言いよどみながらも結局は言うということは、その言いよどみの挿入が、言ったことが本音であるということの証左である。言いたくてたまらなかったのだろう。


[追記]「女性の人権」ということについて私も勉強不足だと後段に書くのだが、きっと女性から見て「人権感覚」というものが私も希薄なのだろうと思う。だからくどくどしく列挙してみたのである。
今回の発言の違和感の主題は「人格」概念や疎外なのだが、本当は「人権感覚」で展開されるべきものなのだろうと思う。もちろん「少子化」担当最高責任者として政策を支える問題に対する視点や観点がどうなのか、ということは当然である。
しかし、柳沢をかばう政治家たちには「人権」問題について分かっていないか・わざと言及していない。ネットを30日段階で見渡してみても、当該発言が「人権」上、どこの・どういうところが・どういうふうに問題なのか、分かりやすく指摘・批判しているものは見つけられなかった。



  • 女性を単に子どもを産むための機械ととらえるかのような発言は、到底許されるものではない。
  • 子どもを持つか持たないかは個人・夫婦の自由であり、
  • 子どもを持ちたくとも安心して持つことができない今の日本社会が問題なのである。
  • 子どもを産み育てやすい環境をつくってこなかったこれまでの政府の責任をすべて棚に上げて、
  • 国民にその責を負わすかのようなものであり、言語道断である。

民主党ネクスト子ども・男女共同参画担当 林 久美子氏
2007/01/29 柳沢厚生労働大臣の「女性は産む機械」発言について(コメント)

http://www.dpj.or.jp/news/dpjnews.cgi?indication=dp&num=9519

  • 1994年のカイロの人口会議で「女性は人口政策の対象ではなく主体だ。
    • それぞれのカップル、特に産む性の女性が自己決定することに世界が取り組む」ということで世界が合意している
    • 少子化への対応、子育て支援の先頭に立つべき厚生労働大臣がこうした認識が全くないことの問題の深刻さを浮き彫りにした。
  • 不妊の女性に対する配慮を欠いたものだとの認識を示し、「センシティブな発言をすべきこところでこういう無神経な発言をするのは許せない」
  • 岡崎(トミ子)議員も「女性たちがどう悩み、そして現在もどう悩んでいるかを全く受け止めていないことを証明する発言だ」と指摘。

2007/01/29 厚労相「女性は産む機械」発言問題受け 野党女性議員有志が辞任要求
http://www.dpj.or.jp/news/dpjnews.cgi?indication=dp&num=9520

申し入れ時に大臣が「私の女性観、女性に対する思いではない」と再三弁明したことを明らかにした。しかし、その説明のなかでも「私の娘たちも男性と同じ教育を受けさせた」などと発言したことを取り上げ、そこ点からも大臣の男女観に問題があることを指摘した。
同上

  • 女性に対する人権侵害だときびしく批判。
    • 子どもを産める人も産めない人もおり、
  • 子どもを産むことが幸せと思えないようになっていることが少子化につながっている

赤旗 共産党吉川春子議員
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-01-30/2007013001_05_0.html

  • 今のように核家族化が進んでしまうと、専業主婦であろうが、働く女性であろうが、夫の協力なくして、出産も育児も家事ももはや成り立ちません。
  • たとえ子どもが産みたいと思っても産めないのが実情なのです。
    • (というのは)職場の理解も得にくい、育児休業中の所得保障もヨーロッパ諸国に比べ劣悪、肝心の産科・小児科の医療現場は逼迫、教育費も家計に重くのしかかっているような我が国の現状では、女性がいくら頑張ったところで、……

民主党 衆議院議員 長島昭久
http://blog.goo.ne.jp/nagashima21/

(要旨)女性は人間ですらない、出産するための機械だと。
多数の反応

柳沢発言は「子どもを産める女性」への増産命令だ。どちらも、背筋が寒くなるほどに身勝手な「本音」の裏表ではないか。
「女性は産む機械」柳沢厚労大臣の本音は語る 保坂展人のどこどこ日記より
http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/78ece3c1656a48024aaac47dbbf332cb

  • 女性の人格を否定するものであり、許される発言ではありません。一人ひとりの人生があり、選択があり、思いがあります。それを「産む機械」と呼ぶなんて。
  • 女性たちは、「年金の財源」を産む機械ではありません。
  • でも子どもを持ったらハッピ−だろうなとなかなか思えない社会だから、多くの女性たちは、子どもを持つことに躊躇しているのではないでしょうか。
  • こんな認識で少子化問題が解決するわけもありません。
  • 女性を「優良な機械」「性能のだめな機械」と分類をするのでしょうか。
  • 「大臣は、誤解を与えたことについて、訂正し、国会でも謝りました。総理も注意をしました」(塩崎官房長官)。誤解を与えたのではなく、ひどい発言をしたわけで、官房長官もことの本質と重要さをわかっていないと思いました。

メールマガジン福島みずほの国会大あばれ」
http://mizuhofukushima.blog83.fc2.com/

  • 少子化が問題だと言っても、社会保障の財源や労働力が不足するから子どもを増やさなければならないというだけの問題意識では、場当たり的な「対策」しか打ち出せない

2007.1.30まどかの窓(円より子議員)
http://www.madoka-yoriko.jp/

  • 「女性を機械で見るということは、産めない女性は不良品なの?」との発言が飛び出し、本当にそうだ、と怒りも倍増。01年11月に石原都知事が「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪」と発言した、いわゆるババア発言は裁判にもなりましたが……

07.01.30 「ちづ子通信」高橋ちづ子議員
http://www.chiduko.gr.jp/

女性国会議員有志による辞任申し入れ書

  • 男女がともに、子どもを安心して生み育てる環境を整備することは、厚生労働省の施策の大きな柱です。しかし、柳澤大臣の発言は、政府が果たすべき役割を棚上げし、
  • 少子化の問題を女性側に責任転嫁するものに他なりません。
  • また、男女共同参画社会基本法にも明記されている「女性の性と生殖の自己決定権」を尊重するという視点が、柳澤大臣に欠落している
  • しかし女性を、意思のない“産む機械”と例えることは、(……女性の人権を踏みにじるもの)
  • 戦争前・戦中、国策であった「産めよ殖やせよ」にも通じ、女性の人権を踏みにじるもの

民主党: 太田和美 菊田真紀子 郡和子 小宮山泰子 小宮山洋子 高井美穂 田名部匡代 仲野博子 西村智奈美 岡崎トミ子 神本美恵子 島田智哉子 下田敦子 千葉景子 林久美子 広中和歌子 円より子 森ゆうこ 蓮舫 和田ひろ子
日本共産党: 紙智子 小林美恵子 高橋千鶴子 吉川春子
社会民主党: 阿部知子 辻元清美 福島みずほ

女は「産む機械」か――柳澤厚生労働大臣の発言に抗議する
辻本清美議員blog
http://www.kiyomi.gr.jp/blog/2007/01/29-1141.html


少し外した反応もあるようですね。

暴言のデパート

思い出したのは渡辺美智雄氏である。暴言のデパートのような御仁であった。

「老人に金をかけるのは、枯れ木に水をやるようなものだ」
「乳牛は乳が出なくなったら、と殺場へ送る。ブタは八カ月たったら殺す。人間も働けなくなったら、死んでいただくと、大蔵省は大変助かる。経済的にいえば、一番効率がいい」
「お金を支払いたくなければ、さっさと死んでください、そうすればお金はかかりません」
小泉内閣の「医療保険制度の抜本改革」を批判する 2001年11月 小西弘泰氏

 ことに通産大臣、あなたの発言がやはりまずいね。例えば老人保健についても、あなたは八三年の十一月二十三日に福井県で、「お金をかけたくなければ、さっさと死んでください。そうすればお金はかかりませんから」、いや、あなたなら言いそうだと思うんだ。これは失言じゃないんだ。あなたの性格で、あなたの政治信条が出ている。私は長い間あなたを知っているから、あなたがそんなうそを言うような人じゃない。これは本当のことですね。それから、八三年の十一月二十四日に東京で、「乳牛は乳が出なくなったら、と殺場へ送る。ブタは八カ月たったら殺す。人間も働けなくなったら、死んでいただくと、大蔵省は大変助かる。経済的にいえば、一番効率がいい」、このときはまだあなたは大臣でなかった。こういうことを言う人が大臣になる、しかも通産大臣になる、これはとても自分のことを自分で守らなければいかぬじゃないかと。
 それから、あなたはそのものずばりでは取り消していませんが、例のも針の問題が大分出て、あなたも痛めつけられたわけでありますけれども、「野党は“医療費はただにしろ”“教科書も無償にしろ”“赤字国債は発行するな”“年金は上げろ”などと言うが、金を使うより金を集める方が大変なんだ。…(このようなことをいう野党の)毛バリで釣られる魚は知能指数が高くない。」正確にあなたの言ったとおりでないかもしれない、こういうようなことを言ったと新聞には出ているわけです。年寄りは早く死んだ方がいい、その方が大蔵省は助かるなんて言われたら、老後のことを考えて、何とか処理しなければいかぬということを考えるのも無理ないと私は思うのです。
昭和61年3月6日第104国会衆議院予算委員会第6分科会 発言258 林百郎
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_logout.cgi より


断片:おまけ
1988.7.24 渡辺美智雄政調会長自民党の軽井沢セミナーで、アメリカの黒人は破産しても「アッケラカンのカー」だという主旨の発言をした。
「日本人は破産というと重大に考えるが米国の連中は黒人だとかいっぱいいて、ケロケロケロ、アッケラカンのカーだよ」


断片:おまけ2
森前総理も「子供を1人もつくらない女性の面倒を、税金でみなさいというのはおかしい」と発言し、物議を醸したことがある。

「女性は産む機械」柳沢厚労大臣の本音は語る 保坂展人のどこどこ日記より

 六月二十六日に、鹿児島市内におきまして、これはちょうど幼稚園の皆さんたちのお集まりだそうです、全国私立幼稚園連盟の主催で、会長は森前総理であります。そこで公開討論会が行われたわけなんですが、この中で二つのことが問題になりました。一つは、太田誠一総務庁長官が、早大生らによる集団暴行事件において、まだ元気があるからいい、こういう発言をした、そして翌日陳謝いたしました。もう一つは、子供を一人もつくらない女性の面倒を税金で見なさいというのはおかしいと発言をした森前総理の発言でございます。少子化の審議ですので、改めてこの中での問題でありますけれども、子供を一人もつくらない女性が、好き勝手とは言っちゃいかぬけれども、正に自由を謳歌して、楽しんで、年を取って、他の税金で面倒を見なさいというのは本当におかしいんですよ、こういう発言でございました。
 森前総理というのは自民党少子化問題調査会の会長をしていらっしゃって、今回の法案に対しても大変大きな影響を与える存在でもいらっしゃいまして、しかも討論会の後の記者団のインタビューに答えて、討論会の対象は幼稚園の母親ら、経営者らで、女性を蔑視した話をするわけがない、少子化問題調査会でこういう意見もあるということを申し上げたと、謝罪するどころか、ここで反論をしたわけでございます。
平成15年7月3日第156国会参議院内閣委員会 発言156 岡崎トミ子
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/156/0058/15607030058016c.html

機能と能力と「人格」

女性の権利についての知識や感覚は私は不勉強なので、なお不足しているものがあるかもしれない。ご指摘いただければ、勉強してみたい。

どういうことに敏感になるべきなのだろうか

こうした暴言の暴言たるポイントは何か。
そのポイントの一つに過ぎないが、対象となっている人たち、女性、障害者、高齢者、子どもたち労働者たちを「人格として扱っていない」と思うからである。
「人格」とは何か明示できなくても、この感覚は正しいと思われるし、正しいと思わなければならないと思う。
しかし、「人格」とは何か定義が難しい。教育基本法に言う「人格」とは何か。
カント、ヘーゲルマルクス……と続く哲学の系列に言う「人格」や「疎外」の話、認識の疎外の話は面白く、別に勉強したいところだ。
しかし、われわれが今反応しなければならないのは、憲法や人権規約やその他に謳われている権利や義務の主体、人権の主体としての「人格」なのだろうと思う。「個人」の主体としての・人生の主人公としての「人格」の侵害に対して敏感にならねばならないのだろうと思う。


「機能」の量的表現としての「能力」、「能力」の寄せ集めとしての「人格」

教育や労働現場など、何らかの「外的」な「数量・数値的」な評価にさらされている子どもたちや教員や労働者は、常に「あれができる」「これができない」という「機能」の種類の多さ・程度の大きさなど、「機能」の量的な測定や比較をされる。
こうした「機能」は「人格」に担われる「能力」である。さまざまな「能力」が多くて大きければ良く評価され、少なくて小さければ否定される。この否定は「人格」的な否定となり、他者からの人格否定は自己の人格否定を誘発する(或いは直接に同一である)。
われわれの「人格」観がどうであれ、実際に動いて働いている「人格」観はこのようなものではなかろうか。
もっと洗練された豊かな「人格」概念を手にしたいものである。理論的にも。