心理科学研究会編『かたりあう青年心理学』1998年 青木書店より

首記のノートです。敬称は略させてもらいます。特に反省もせず直感的な抜書きに近いものです。本の紹介を意図したものではありません。よって誤読・曲解なんでもありです。

都築学「序章」

社会の発展とともに誕生した青年

マーガレット・ミードがサモア諸島に調査に行ってみると、そこには資本主義社会に見られるような青年期が存在しなかった。青年期は社会の産業発展の歴史とともに世の中に誕生してきた。だから、「青年」はすぐれて歴史的な時期なのである。人類の一部に「青年」が発生した初期は、その一部の社会の間でも「青年」を過ごすことができたのは少数のエリートだけであった。

青年と大人

青年と大人は同じ時代を生きているし、悩みの基盤は共通のものがある。

青年は豊かになったのか

物的にはますます恵まれてきているかもしれない(88年)が、人と人とのつながりが薄れ、精神的に孤立している青年も少なくないし、第三次宗教ブーム・占いの流行など、他者依存的な傾向もある。

中川作一「歴史の中の青年」

明治初期の「青年」は一部のエリートだけがその時期を過ごすことができた。しかし、官立高等教育機関の学生たちに与えられた青年期と、自由民権運動から影響を受けた近代市民の先駆けとしての青年期とでは様相を異にしていた。しかし、後者は言論弾圧によって敗北・消滅をしていく勢力であった。

 わたし(中川)の表現を使えば、元気というのは、自己とかかわる能動性です。しかし、その能動性を回復するためには、既述のように、自己の中に、自己の中の他者と語りあう相談のフォーラムを構築する必要があります。孤立して無気力になっている連中が、ほんとうの元気をだせないのは、その「内心のフォーラム」が整っていないためです。
 そのために彼らは、自分の責任で自分自身にかかわることができず、自己以外のなにかによって生きる手を選ぶようになります。これが立身出世主義の心理だとわたしは思うのですが、しかし見方をかえれば、この生き方は学校の成績や社会的地位のために、自己が自己であることをやめる、自己を失う、ということではないでしょうか。

成瀬功「歴史の中の青年」を読んで

 上意下達の「命令型コミュニケーション」ではなく、中川先生は「相談型コミュニケーション」のあり方を兆民を通してここで指摘されています。……
 兆民は「自由は取るべきものなり、貰うべき品に非ず」と述べていますが、それは単に自由の実現という問題としてだけ提出されたのではなく、そこに平等という観念が大きな比重を持っていたようです。
 「人間は平等である」という考え方をあらゆる場面で貫徹しようとする時、自由が擁護されることになるのです。他者の犠牲の上に自己の自由の権利は保障されるわけがありませんから

 ……学校教育を介して社会的上昇を迫られている……現代の青年は仲間と共有する目標を見定められず、自分は誰からも評価されない脱落者ではないのかという不安がつきまとい「相談型コミュニケーション」を失い、「自我」はとても不安定ではないでしょうか。

高垣忠一郎「自分をつくる」

青年期における自己形成の課題

中心的な課題といえば、自分の行動・生き方を選択する基準となるものの見方・感じ方、価値観を形成することである。

今日の青年の価値観と生き方

生活が消費社会に包摂されていき、「価値観の多様化」が進んでいる今日、青年の価値観の確立は困難になっているように見える。
また意識動向としては「他者に対して無関心な利己主義者の群れ」として相互を見ているが(他者像)、自己像は必ずしもそうではない。ただし、「他者に無関心な他者像」は自己像としては虚像ではあるが、他者像としては機能しているので、青年たちは相互に自らを隔ててしまい、自己形成を困難にしているのではなかろうか。というのは、自己形成は他者とのコミュニケーションを不可欠の契機とするからである。
さらに、「虚像」を演ずることによって自己を空洞化している場合もある。
肯定的な自己の「実像」を形成することが課題である。