人格の断片化と全面発達


わがNINEは言う。
http://srysrysry.blogzine.jp/meniutsuru/2006/03/keep_tryinpv_pa_c7ca.html

 1:他者の人格をパーツの組み合わせと入れ替えで理解し、自己もそのように表現する 
 2:そこに付加価値をつける競争を起こしながら、他者のみならず自己も巻き込まれる
 3:人格のパーツ化も、組み合わせと入れ替えも、競争も、その正解は常に流動している

……
8:おわりに――まだ名付けられない言葉と行動のために
 ……またメンタル面の競争と新自由主義とが密接に結びついている……僕自身は、これまで参加した社会運動の動きや出会った人々と日常的に付き合った経験から、パーツによる自己/他者理解と異なる関係性は実際につくれるだろうと思っています。だからまずは場づくりの行動や身近な人と接するなかでやってみたいと思います。そのノウハウや、この連載は、ネットに載せて行けたらと思います。……

人格の断片化ということ自体は目新しいことではない。
日常生活では人は求められた限りでの自己を提出し、求めたこと以上のものを受け取ったりはしない。心理学でいう「役割」というものを果たしていればそれで済む。(そういうことを言いたいのではないでしょうが)
そうではなく、社会・経済・政治といったものから個人に求めるものが一面的であること、そして一面的な人格が形成されてしまうこと、そのことによって「人格」が「疎外され」てしまうことが問題である。
疎外とか、Versachlichung──物件化とか、一昔・ふた昔前にこうしたコトバで考えていたことをもう一度復権させる必要があると思う。それはマルクスグラムシ(!!)がその原点を持っている。
わがNINEの言うように、産業労働でもサービス労働でも消費行為でもない「社会運動」に参加することによって、「パーツによる自己/他者理解と異なる関係性」の一つは構築できるであろう。しかしそれがまた単なる一つの「パーツ」に過ぎないものでないものとして構築されるかどうか。「社会運動」であることが非「パーツ」すなわち「全人格的関係性」「全面的関係性」を保障するものであると宣言するには、まだコトバが足りないように思う。
繰り返しになるが、私は「疎外論」や「全面発達論」の復権もしくは再獲得が必要だと思う。あるテーマの「社会運動」が終わったあと、関係性も全面的自己も終了するのではないような総括をするには、つまり一過的な関係性にならない総括をするためには、「疎外」概念を磨かねばならないと思うのである。
ただし、「磨く」のは学術上の課題というよりは私自身のお勉強の課題ですが。Entfremdung とか、論争がありましたね。もう一度勉強します。

また、NINEが「社会による人格の細分化・断片化」というときの「社会」は「高度消費社会」のことも含んでいるはずだが、このことに関する読み込みや理解は、まだ私には不十分だと自覚している。労働者の再生産過程に「消費」が浸透して、そのことが労働者とその子弟の人格・労働力の再生産をゆがめている、って言い直しても何も変わりないが。
まだ私の中ではこれらの概念・観念のつながりが十分ではない。

 さらに僕が、あなたが、一人ひとりがまずはのまだ名付けようの無い感情や思考こそを言葉や行動に変えていきたいいきたいですね。それを通して自分たちのあり方をつくりかえていけるものでもありたい。

その通り。「いきたいいきたいです」。人格を変容し形成せしめるのは実践です。宮本顕治もそう言っています。

宮本顕治の再獲得

宮本顕治って、けっこうボロクソに言われているし、半分以上犯罪者扱いである。個人の風貌の好き嫌いで言うとあまり好きではない。しかし、日本の革命家で彼を超えたものがいるだろうか。彼の「厳しさ」を再獲得する必要があると思う。(文献読むのは共産党員向けの文章が多くてしんどいけれど)