▼キャラ社会と青年

土井隆義「キャラ社会の構造」(『世界』2月号)と若者たち

北海道教育科学研究会(道教科研)のブログです 2006/01/13
http://blogs.yahoo.co.jp/doukyoukaken/22483357.html?p=1&pm=l

抜粋

『世界』2月号の土井隆義「キャラ社会の構造」を読んでいて、「教職入門」での大学生・院生の反応に納得することがありました。

キャラクター(人格)は成長しないと考え、背景・社会状況には目が向けられない、脱文脈化された認識が多くの人びと(特に若者)の中にはあり、〔格差・身分さは生得的で普遍の「キャラ」であるという認識だから〕不満や批判的意識はなかなか生まれてこない・・・。なるほど・・・。考えさせられました。

全てを肯定するつもりもないのですが、<成長発達><関係の中での自己>という認識が学生の中でも欠ける傾向が強まっており、そのために、自己否定感、不安感などに苦しめられることになっているのではないかと思われたのです。もちろん、その一方で、自分が優秀な生得的属性を持っていて、「「荒れる」生徒の気持ちは考えもしなかった」「そんな人いない方がいいと思っていた」「そんな暗く考える必要ない」「全ては自分しだいなんだから、教師が手助けするのは余計なおせっかいだ」と考える学生も一定数いました。そういった学生にも<成長発達><関係の中での自己>という認識が欠けている印象を持ちました。

となると、
①キャラを強調した、若者への接近

②個別の<成長発達><関係の中での自己>ということを理解してもらう体験・対話の設定
が必要なのかなと思いました。どうでしょうか?学生たちには、「若者よ、他者・社会との関係をつくり、自己認識を豊かなものにしていこう!」そう言いたいなと思いました。(今回のものは、土井論文を正確に要約したわけではなく、その一部を切り取って論じたものです。)

以前、土井氏のブックレットに言及したことがあるので、関連して読ませていただいた。
 つまり、今の青年たちの人間観・自己意識・他者観・社会観が静的な「キャラ」で成り立っていて、
 相互に無関心なのに、場合によっては自己関心が強いのに自己が空疎で不安定っていうこと?。
 相互に無関心なのに自分の承認だけは求めたいということか?。
 一人前の「キャラ」になることによって自己が自己の下に安らぐことになるのだろうけど、青年たちはその「生得」で「静的」な「キャラ」の確証はどのように得ている(得ていない)のだろうか。
 本当に「キャラ立ち」社会だという認識を持っているという認識でよいのか。
 青年たちが自他について「キャラ」視しているとして、その積極的な意義はないのだろうか。自立のイメージが敗北的に「ゆがんでいる」という捉え方でよいのだろうか。
 私は(も)よくわからないでいるし、どれだけ重要なことなのかもよくわからない。

 

「どうでしょうか」に対しては、私は、そういう《「キャラ」的な「人間関係認識」をもたらした人間関係》をもっと明らかにしないと、「個別の<成長発達><関係の中での自己>ということを理解してもらう体験・対話の設定」を「自己啓発」や「カルト宗教」「ねずみ講」に求めてしまうことになると思う。
いかがでしょうか。