格差社会の何が問題か/「格差社会」の実態は一億総「貧困化」

近頃、「格差社会」「所得格差の広がり」自体を問題視する向きが広がっている。所得格差があることこと自体は実証的な言説であって、価値的な判断を含まないはずである。
また付言すると「勝ち組」「負け組」というコトバは所得格差と無関係ではないが主観的な謂いであって、単に正社員であるだけで自らを「勝ち組」だと認定している者もいることから、所得格差そのものを表現してはいない。社会の中の格差を表現しているというよりは、「開いた格差が縮まらない社会構造」というイメージの元での庶民のありよう・自己言及のための言葉であると言えないだろうか。と言いつつも、あとで「負け組」の大量発生と書いちゃいますが、ここでの「負け組」は「貧困層」というのと同義です。

わたくしはこの間の「格差社会」の「格差」については改めて驚いてはいるが、少なくない人が「格差」そのものについて憤慨しているのを読んだ。また大衆運動がいつまでも分野別に・大衆受けしない「タコツボ」的なたたかいに留まっているとの批判を目にすることがあった。われわれは「小泉構造改革」の影響をこの「格差社会」に要約して認識していて大丈夫なのだろうか。

資本主義社会ではさまざまな格差が発生し、それが拡大したり縮小したりするのは当たり前であって、こうした格差を否定したいのであれば、当然に・それこそ「科学的に」無格差社会を展望すべきである。伝統的には社会主義社会や共産主義社会を展望すべきである。(ただし、共産主義は無格差ではあっても無差別な社会を展望していない、と私は理解している。ここでいう無差別とは差別的処遇のことではありませんが。) 社会主義共産主義に背を向けながら格差社会を非難することはできないはずである。

格差の社会

資本主義社会で格差が発生するのはなぜか。支配階級が被支配階級と被支配諸階層を搾取し・収奪し、あるいは詐取するからにほかならない。資本主義社会で格差が開いたり小さくなったりするのは、当然のことである。
この間の格差の広がりは、「新自由主義的改革」によって搾取と収奪の度合いが強化され、再分配の仕組みが破壊され、弱肉強食の規制緩和がなされ、産業と住民の庇護者としての自治体のリストラクチャリングが進められたからであろう。規制緩和による金融ギャンブルや意図的な公的資金の注入はこれに拍車を掛けはした。こうした「改革」は「階級的」というよりは「市民的」なシステムの破壊として進行したので、社会の格差が広がったように映ずるのである。しかし、本質的には資本主義の制度によるものである。資本主義が「新自由主義的改革」によってむき出しになっただけのことである。社会主義がイヤなら甘んじて受けろと言われても仕方が無いとすら言える(言いすぎだろうか)。
ただし、このままでは、この「格差社会」が今、開いた格差が縮まるどころかますます拡がっていくこと、拡がった格差の下の層には圧倒的多数の国民が属していて、その中でも「格差」の序列があり、おしなべて貧困であること、貧困化が進行することは間違いないであろう。

一億総「貧困化」

人類は人類の一人一人を残らず殺戮する武器と戦争のシステムを開発することができた。しかしながら人類は人類の一人一人にあまねく生存と健康と発達とを保障する財や生産力(質はここでは問わない)は持つことができたのかもしれないが、それを実現するシステムは持てていないのが現状である。富の偏在も克服できていないし、しかも富の偏在の多くの原因は自然現象ではなく人による人の合法・非合法の搾取や収奪である。
日本でも世界でトップを争う武器群を国家として所有しているが、全ての国民(ここでは国籍不問)にあまねく生存と健康と発達とを保障する財やサービスを提供する仕組みを作り出してはいないし、その仕組みは、この間の「構造改革」によって破壊・形骸化・空洞化している。
格差社会」の何が問題なのだろうか。それは「負け組」といわれる人々の大量発生である。「負け組」とは何か。それは生存・健康・発達に必要な財やサービス(医療や教育を含む)が十分に受けられない人々である。(雇用ということをどこに位置づけるか。生存・健康・発達にとって、一定年代において就業は必要であるという理解にしておく。) 富の再分配システムの破壊、自治体の統廃合、福祉サービスシステムそのものの有料化、福祉受給の有料化、諸制度の有料化・申告化などによる形骸化・空洞化が進んでいる。失業・商店の破壊、すなわち「そこで生活できる地域」が破壊されていて、「そこに住めなくなっている」。
すなわち、地域も含めて人生生活ほとんど全ての階層に渡って深刻な貧困化が進んでいると言える。経済的な事情によって、いくつもの将来を断念しなければならない青年が増大している。そしてそれは児童期からいくつもの「断念」の蓄積の上、更なる断念を強いている。(あるいは出生のときから人の可能性の格差は「雲泥」に開いているのだろう)。
しかもぼやぼやしていたら、ちょっとした財貨と引き換えに徴兵が待っているだろう。生存の保障どころか逆に積極的に生命を提供しなければならない社会になる。同意して徴兵されるのだろうから、「国旗」が見え「国歌」が流れる下に間接的な自殺が国家によって組織されるようになるわけである。

社会認識とたたかいの方向

格差社会」という認識では全く不十分である。われわれの多くが、「行き過ぎた格差」を否認しても「格差」自体は日常的・実践的に生活や子育ての中で認めているからである。そうではなく「一億総貧困化」である。
たたかいの方向は何か。貧困化との戦いである。貧困化システムとのたたかいである。その礎は「憲法」であることは言うまでも無い。
社会全体に汎出している「貧困化」とたたかうという理解によって諸分野の連帯が図れないだろうか。福祉・医療・教育にとどまらない広範囲な人間破壊・生活破壊は「貧困化」という言葉でくくることができないだろうか。