▼文部官僚の思考回路?

立場が上に行ば行くほど謝らない、というのは社会学の研究対象かしら。

いじめ自殺調査方法の見直し、文科省が初会合 (読売オンライン 2006年11月15日)
 「7年連続ゼロ」となっている児童・生徒のいじめ自殺の調査が、実態を反映していないと指摘されている問題で、文部科学省は15日、現行の調査方法を見直すため有識者を集めた初会合を開いた。

この問題では、「いじめゼロ 反映していない」でYahoo!検索してみると例えば、

 痛ましい福岡の中2生のいじめ自殺事件。しかしその中学校の教育委員会へのいじめ報告は過去3年間「ゼロ」。なぜこんなことに?
 文科省は、03年3月「いじめ5年間で半減をめざす」という政策目標(数値目標)を掲げた。文科省のいじめ把握件数は21,600件(公立・05年度)。全国の公立小中高数37,000校。「いじめ半減」という数値目標は、学校ごとには、いじめ「ゼロ」目標押し付けとなった。
 新潟市教委など、いじめ「ゼロ目標」を掲げないと学校からの報告を受け取らなかった文科省の数値目標押し付けがいじめ隠しを生み出している。
http://web01.cpi-media.co.jp/shiokawa/message/message.htm No.84(2006年10月30日)

文科省「初中教育ニュース」を購読しているが、お詫びも・反省も何もない。本日付のメルマガも他人事のよう。

□ コラム:合田の「Let's Go だ!」
舟に刻して剣を求む
 「舟に刻して剣を求む」というのは、時勢の移り変わりに気が付かず、昔のしきたりにこだわる愚かさのたとえである。舟から剣を落とした人が、舟が動くことを考えずに舟端に目印を刻みつけて水中の剣を捜したという「呂氏春秋」察今の故事によるものだそうだ(小学館大辞泉」)。

 「いじめによる自殺ゼロ」で問題になった文部科学省の調査も、調査の継続性にとらわれ、一度決めた定義や分類での調査結果が、実態を反映していなくても見過ごされていた。

 統計というものは、指標を定義して行われる。経年比較に用いられる統計の宿命として、一旦決めた定義を変えるのは難しい。統計を読むときには、それらを考慮して、その統計が何を意味し、何を意味しないかについて注意して読む必要がある、ということは、みんな学校で習ったはずなのだが(未履修の人は仕方がないが)。しかし、それはもはや言い訳にはならないだろう。

 変化の激しい世の中にあって、変わらず続けていくことと同時に、時代の推移を踏まえ、柔軟に変わっていくことも重要だ。〔中略〕

 我々にとって大切なことは、強い者が弱い者をいじめるという人間の性に対して、教育に何ができるか、ということだろう。しかし、さらに言えば、もしそこに、現代の社会に特有の問題があるとすれば、その社会の側の問題に対して、教育の側から改革を求めていくことも、我々の大切な責任ではないだろうか。社会全体が、舟に刻して剣を求めていてはならない。

 幸い、教育再生会議という、願ってもない場ができた。
 良識ある声なき声よ、今こそ、届け!

       〔初等中等教育局審議官 合田 隆史(ごうだ たかふみ)〕

薀蓄話は面白いけれど。
それとも審議官って役人じゃなくてフリーな人なんか? そうだとすると、反省力も批判力もないのによくぞ採用されていることだ。
統計が古くなってました! という。
この人の人間観も単純かつあからさま。いじめがあるのは「人間の性」だと。だとすれば、学校に求められるのは抑圧や弾圧以外にないではないか。