▼抜け出せない困窮生活についてのリアリティある認識が無い

MRI TODAY
「再チャレンジできる社会」の前に「チャレンジのできる社会」に
〓情報社会に適した教育への転換こそが真のセーフティネット

表題に釣られて読んだ。


再チャレンジの前に初チャレンジできてない

一方で、再チャレンジの前に、最初のチャレンジができない人も増えている。例えば、義務教育あるいは高等教育を卒業しても、職を得たり、社会に参画・貢献することが困難な人である。
大学卒(2005年3月)の無業者は約10万人(卒業総数の18%)(文部科学省※「平成17年度学校基本調査報告書」)という状況である。

この一言をもって「再チャレンジできる社会」という言葉は「約10万回」破綻している欺瞞であることは明らかではないか。
しかし、三菱だからか、それはチャレンジする側の責任に転嫁される。

失業無業は本人の無能のせいである>>学校教育が悪かったにしても

最大の要因は、情報社会に対応した教育への転換の遅れである。その結果、学校を卒業した多くの若者が、今の社会で求められる力を身に付けていない(若者の能力が下がったのではなく、社会で求められる能力が変化したことに注意)。

NHKのワーキンブクァとか観てないのかな。抜け出せない貧窮が教育の機会を奪い、或いは家庭生活を破壊している、医者にかかれない……。生活の貧困ということについてのリアリティが脳みそに座を持たないのであろう。

求められるのは、与えられた問題の正解を出したり、専門的な知識を備えたりする人材ではなく、自ら設定した課題や正解の明らかでない課題について、多様な人々とコミュニケーションをとって一緒に解決策を見出し、合意形成し、それらを最後までやり遂げるような人材である。

世の中には色んな人がいて成り立っているのであり、一般的な求められる人材像として「ハズレ」ではなくても、「チャレンジできる社会」を展望するときにこうした人材像をのみ要求することだけ。これがどれほどのリアリティを持つというのか。

情報社会で真に求められる能力を再定義して社会で共有し、その能力を身に付けることのできる教育に転換していくことが必要である。情報社会に適した教育への転換こそがチャレンジを可能にし、社会として本当の意味でのセーフティネットを保障することになる。

情報社会で求められる能力とは何か。前の引用の人材の有する能力であるらしい。
前出の10万人の青年たちはどのような感想を持つだろうか。
表題『「再チャレンジできる社会」の前に「チャレンジのできる社会」』に文字通り「釣られた」今日の昼休みだった。