▼労働の社会化と貧困化

山口正之「労働の社会化・階級闘争・人間形成」『立命館産業社会論集 第35号』、立命館大学、1983年

要約。

富と貧困のブルジョア的形態

資本主義は社会の歴史的な一形態である。<ブルジョア的富とプロレタリア的貧困>は前近代的な貧困とどのように区別されるのか、その特殊な形態が経済学批判の問題である。
富のブルジョア的形態が資本であり、貧困の資本主義的形態は自由な賃労働である。
資本の蓄積はプロレタリアートの増殖である。


交換価値の支配──労働の社会化──万人の万人に対する闘争

人格的な隷属関係に基礎を持つ経済的強制は、交換価値の普遍的支配に基礎を持つ自由な独立的人格の相互依存の関係に置き換えられた。
交換価値の支配は個別的諸労働の・社会的生産過程の・社会化の表現である。
諸個人の交換価値を介した全面的な相互依存は、貨幣への諸個人の隷属として顕現する。社会的諸関係は諸個人にとって疎外されたものとして立ち現れる。
諸個人は前近代的な人格的隷属関係から政治的に解放されたが、経済に隷属的に支配される。
交換価値の支配として出現する個別的諸労働の社会的連関は、「万人の万人にたいするたたかい」の生成するところの結果である。これをつうじて自由な私有は資本と賃労働に分解する。


貨幣の資本への転化と生産者のプロレタリア化

貨幣は<諸個人の全面的相互依存>と<社会的生産の敵対形態>との統一的な表現である。
貨幣は<諸個人が、諸個人自身の無政府的関係に隷属していること>を基礎に、権力的に存在する。
貨幣の資本への転化は、階級支配と階級闘争の真の根源は人格的隷属関係や身分的差別にあるのではなく、労働の社会化の自然成長性への拝跪にあることを暴露する。
資本とは単なる貨幣でもなければ単なる生産手段でもなく、賃労働を必要とする一つの生産関係である。
このことは、資本主義が進展し、所有と管理の分離が進み、企業の管理過程もが賃労働者によって担われるようになることによってますます明らかになる。
だから資本は人格的権力ではなく、社会的権力である。
近代プロレタリアートは<資本家という人格的権力に隷属する個別的労働者>ではなく<資本という社会的権力 Macht に隷属する社会化された労働者>である。
資本による労働の社会化は世界市場の形成において一つの頂点に達する。「世界市場」の意識的な共同管理が、人類そのものの生存にとっての経済的に必要な条件になっていくる。
国民国家と資本の権力は、「苦悩に満ちた漸次的な死滅の過程に入り込む」。


分業と社会化と自由な個性

分業は労働を社会化し、社会的相互関係を発展させるが、個別的利益と共同的利益の現実的矛盾に規定された敵対的闘争は必然的・世界的となる。この矛盾は分業の廃絶によってのみ止揚される。
分業による相互依存性が階級的抑圧と国家権力による支配の必然性の基礎である。
したがって、分業の固定による部分的な発達ではなく、全面的に発達した人間にならない限り階級支配の必然性はなくならないのであるが、その物質的・客観的条件を作るのが機械制大工業である。
大工業は暴力的にではあるが、労働者さまざまに陶冶するからであり、そうしないでは存続し得ないからである。
こうして、資本主義社会において初めて全面的に発達した人間が出現する。それは労働者である。

さいごに

労働の社会化と貧困化は別物ではなく、資本主義的でない貧困もしくは貧困一般は革命を準備しない。
労働の社会化の法則のほかに変革の主体的行動の原理は求められるものではない。自然成長性への拝跪こそが抑圧と隷属の基礎である。
労働の社会化を論じて諸個人の諸能力の全体の発展に及ばないのは不完全である。変革主体を考える前に、新しい人間の形成と自由な個性の完成の法則をまず問わねばならない。


以上、勉強終わり。