▼北京オリンピック

圧倒する力を見せ付けたオリンピック開会式

北京オリンピックの開会式をご覧になりましたか。きれいでしたね。派手でしたね。
あんなに多くの「仕掛け」や花火や、大量の人たちが一糸乱れぬように動いているのを観ると、「圧倒される」感じがしましたね。
何に圧倒されるかって、「力」ですね。
この場合の力は、資本(資金)、権力、「国家の威信」イデオロギーという思いでした。

力の見せ所が違うのでは?

それにしても少し必要以上に金をかけすぎてやしないかと思いました。
今、中国は大変な貧富の差があって、毎日泣いている極貧農民が沢山居ると言うじゃありませんか。義務教育の小学校だって有償のままじゃないの? 兵器、花火、エリートだけが使いそうなスポーツ施設、箱モノ。
ああいう、体育館とか水泳場とか箱モノつくるのに、どんだけ金がかかっているのか。そして金がかかるところには汚職あり。

「国家体育場」「国家水泳センター」と国家、国家のオン・パレード

あの、「鳥の巣」の名称が「国家体育場」と知ったのは最近だけれど、「やっぱり」というのと「違和感」とが同時にわいてきた。
北京オリンピックの開催については「国家の威信」ということが内外でも散々言われていたので、「国家」という言葉が使われていて「やっぱり」と思ったのだ。
「国家」というイデオロギーというか、自立させた面子面目の怪物のようなものには嫌悪感を感ずる。

なんで「人民体育場」「人民水泳センター」ではないのか。

違和感があったのは、「人民共和国」であって、何にでも人民が冠せられるのがこれまでの中国だったように思うからだ。
人民元、人民銀行、人民軍、人民大会、人民服。ところが、ここにきてオリンピックは「人民」ではなくて「国家」なのだ。
もはや、中国の富裕層・中産層、脱貧農を夢見る労働者たちを統合するイデオロギーは「人民」では弱すぎるのかもしれない。あるいは「人民」は「貧民」の代名詞なのかもしれない。
新しく「自由」や「市場経済」を享受しているこれらの人民を統合できるのは、「人民=党」というコードではなく「国民=国家」というコードなのかもしれない。


オリンピックが終わった後、これらの施設がどのように「国民」に供せられるのか、興味深い。