▼犯罪報道、など。青年と老人。

あらかじめ・念のため書きおく:犯罪はダメです。


秋葉原の通り魔殺人事件。
当然ながら・容疑者ながら実名報道され、勤め先や出身地まで明らかに晒され、「親はたまらんじゃろなー」と思っていたら、親が実家で記者会見したという。
もちろん、たまらないのは殺された側の遺族の方々も(こそ)なのだが、こんな不幸は比較の問題ではなかろう。


実名報道など

秋田の幼児連続殺人、奈良の自宅放火事件、岡山のホーム突き落とし事件、秋葉原通り魔事件、古くは三浦ロス疑惑。容疑者が真犯人であろうがなんであろうが、実名報道され・マスコミが「実家」に押しかけ、近辺を取材しまくる。
もぉ、これはアカンのではないですか。出生、学校での評判、仕事場での評判・態度、病歴(とりわけ精神科領域!)などなど、そういうのを暴きに暴いてどうするのか。犯罪者の身内として直接・間接に取材される家族親戚を、いたたまれなくして良いのか、そんな権利が誰にあるというのか。犯罪者を出した学校、などと学校ごとレッテルを貼るようなことをして関係の無い子どもたちを巻き込む権利が誰にあるというのか。


経済犯罪や政治家・役人の犯罪、ヤクザ・暴力団の犯罪は実名を知りたいところだが、そういったことも含めて、取材・報道のコードをもっと見直すべきじゃないかと思う。


衝動殺人

衝動的な殺人犯罪として、むしゃくしゃしたり、「疲れ」たりして「誰でも良いから殺したい」と思って、本当に殺してしまうような事件と、認知症の被介護者に罵られたり命令されたりして被介護者を殺害する介護者の事件とが増えているように思う。
前者は青年層を中心に報道されているし、後者は老夫婦(たいてい二人世帯)である。

共通点がいくつもある(気がする)。
  • 両者とも孤立しているのではないか。会社に勤めていても(含む派遣)、介護保険を利用していても、何か大切なところで孤立しているのではないか。大切なところで、というのは、ココロに実感されるような具体的な心理状態として孤立感が強いのではないかということである。
  • 両者とも疲れている。これは当人たちが証言している。「もう、いやになった」「日々の生活に疲れた」、そういう言葉がぴったりはまるような疲れである。疲れるとストレスに対する耐性や容量が弱小化するのはわれわれも経験するところである。つまり、イライラしてキレやすくなる。
  • その疲れは基本的に慢性的・瀰漫的である。つまりその疲れは「昨日は運動会だった」とかいうような急性・亜急性のものではなく、かつ「足だけがしんどい」とかいうようなものではなく、まさに全生活の主体としての「全人格的」なものであろう。このような筋肉痛だけではない、全人格的な疲れは、孤立したままでは癒されるものではないし、疲れそのものが孤立感である(孤立感そのものが疲れである)。
相違点
  • 「将来展望」ということについてそれぞれどう思っていたか・感じていたか、「時間感覚」については興味がある。両者は異なった質を持っていたのではないかと思う。どんな、であるか、うまく書けない。
  • 介護に疲れた老人が「誰でも良いから殺したい」とは思わないだろう。老人の敵意は眼前の相方の老人に具体的に集中するから、わかりやすい。
  • 「疲れた」「失望した」青年が「誰でも」良いから「殺したい」と思って行動する、今回の事件では、携帯で掲示板に刻々と書き込みながら自分を励ましてまで実行するということが深刻であろう。もしかしたら、冷静ながらも精神科的領域では十分に「異常」の地に立っていたのかもしれない。
  • それにしても「誰でも」というのは、わかりにくい。一頃金属バットでやられた「親」ではないのである。特徴としては、「誰でも」といっても、たとえば自衛隊の駐屯地に向かって行ったり、警察署で暴れてみようかなどとは思わないで、衝動犯罪に対して無防備な学校とか雑踏とかにわざわざ出向いているところである。自分にとって相互に「匿名性の高い」ところに向かおうとする傾向がある。「匿名性が高い」というのは「自分を評価する者がいない」か「(視線や評価・評判を)無視できる」、つまり人間を「物化」「物件化」、ゲームの「キャラ」化が可能で、そのような傷つき易い・疲れやすい心性にとって安楽だということだろう。このことは、インターネット上の匿名性と相通ずるものがあると言われるであろう。
  • 「殴りたい」「傷つけたい」ではなく「殺したい」というところが過激に深刻である。無防備なホームレスを弱者蔑視の心性でもって蹴ったり放火したりという気持ちの延長だろうか。報道を流し読みしたり聞き流したりする分には、犯人たち・容疑者たちは「殺す」「死ぬ」ということについての「思想」は持っていないように思われるから、「殺す」も「蹴る」も同じ延長のようにも思える。しかし、今回の事件では反撃無用の準備をして行っているから、選んだ対象からすると「殺す」ようにしないと、自分がやられてしまう。彼がどこかの橋の下にでも行ってホームレスをいじめてみようというような裏暗い気持ちでコセコセしていれば、死なない程度のことになったのかもしれない。
  • それにしても「殺す」というのは、ずいぶんな飛躍である。たまたま手に持ってたシャーペンで刺したら死んでしまったとかいう衝動性ではなく、自分の行動についてかなりはっきりしたイメージをもって準備しているから、そのイメージを体現しないと済まない「感覚」があったのだろう。しかしそれは「思想」ではない。「誰でもよいから殺したかった」というイメージは、どこかの国の自爆テロとかと全く違って、それ自体「根拠のないイメージ」である。計画した事件であっても「根拠のないイメージ」に基づいているように思われるから、われわれは「衝動的」と表現してしまうのであろう。しかし、その「根拠のないイメージ」はどこから来たのか・来るのか。

「誰でも良いから殺したい」の分析をもっと

孤立していそうな人口層に対して、連帯を呼びかけるのは、一応正しいし、簡単だし、明るいし、ウラが無いし、危険性も少ないから、それは実行されるべきであろう。
しかし、「誰でも良いから殺したい」という心理は「相当長く・深くイラついていたのだろう」という想像はできるけれど、それをがんばって実行してしまうとなると、なかなか難しい。
この心性はもっと分析され、真の根拠が明らかにされなければならないだろう。


杜子春

その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩(や)せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。……
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」
 鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭(むち)をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈(みしゃく)なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌(きら)わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身を悶(もだ)えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程嘶(いなな)き立てました。……
 杜子春は必死になって、〔声を出すなという〕鉄冠子の言葉を思い出しながら、緊(かた)く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、殆(ほとんど)声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰(おっしゃ)っても、言いたくないことは黙って御出(おい)で」
 それは確(たしか)に懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。……杜子春は老人の戒めも忘れて、転(まろ)ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸(くび)を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母(っか)さん」と一声を叫びました。…………

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43015_17432.html

困った親も居るだろうけれど、基本的には親を泣かせてはいけません。