▼偶然的個人と不幸

 人類史的には偶然的個人の時代です(マルクス『経済学批判要綱』?)。
 この間、NHKの教育テレビを観ていたら、中学生までおねしょをしていたという赤瀬川原平氏が、自分と取替可能なような肉体を持つ友人たちと、どうして取替が効かないのだろう、というようなことを言っていた。

http://www.nhk.or.jp/shiruraku/200609/wednesday.html#1

つまり、どうして私はうちの子であって・この(おねしょをする)肉体を持っており、あの子の家の子・あの子の(おねしょをしない)体ではありえないのだろうか。
 昨日ラーメン屋で読んだマンガでは新生児室の乳児たちに「家が貧乏だったら何のために生まれてきたのかわからない」と会話をさせていた。
 まこと、偶然的個人の時代であり、偶然を運命として受け入れることを強いている時代である。

  • イラクレバノンに数年前に生まれていたら、数ヶ月から数年前には頭を半分吹き飛ばされて人生を終わっていたかもしれない。
  • イラクレバノンに数十年前に生まれてたら、首の無いわが子を抱いて胸を潰していたかもしれない。
  • 今の日本で、隣の違う国籍の子として生まれていたら「臭い」とかなんとか叩かれ、就職できないかもしれない。
  • 日本に住まいながら外国籍の親として子をもうけて暗い顔をしているだろうか。
  • 母親がほんの数分我慢していたら、自分は他所の、大学進学が約束されている家庭に生まれていたかもしれない。
  • 数十年前に生まれていたら玉砕を命令されていたかもしれない。
  • いや、数年前に生まれていたら、派遣労働者として寮から寮へと感情を無くした旅をしているのかもしれない。

 偶然の運命で(それは出生とは限らないが)、走る喜びさえ知ることなく生涯を終える。それは昔からあった。しかし、昔と比べれば限りなく回避できる。

 許しがたいのは、「偶然の不幸」を背負った諸個人を使役し・収奪し・殺戮することによって、自らの偶然を不幸に転落させないよう維持し・「幸福」になろうとしているシステム、偏狭と暴力 Gewalt と資本である。

 暴力と資本はそういう側面では、資本が暴力を発揮して不遇を従属させるという仕組みになっている。

 「偶然だから面白いし、楽しいし、その偶然を喜んで引き受ける」と言うことができるような、「生まれ」という単なる生物学的な偶然を心の底から楽しめる社会へ!