▼青年のコミュニケーション能力

昔はいわば自然に鍛えられていた

青年のコミュニケーション能力の「不全」については私自身も青年と話や仕事をしていて怒鳴りたくなることがないではなかった。
コミュニケーション能力は先天的なものではない。先験的な能力があるにしても、それは現実に使われなければ引き出されないはずである。普通の人はそうである。
青年と話をしていると、コミュニケーション能力不全の青年は、もしかしたら圧倒的にコミュニケーションの実践量が少ないのではないかと思う。
遊び場があって、ファミコン・ゲームが無かった頃は「ギャングエイジ」の子ども等が集団をつくり、年齢階層に応じた人間関係、役割、役割ふさわしいリーダーシップや年少者に対する庇護、命令・指示・提案など、楽しく、コミュニケーションしたものだ。そしてすぐにコミュニケーションの成否が顕われ、反省でき、やり「直せ」た。そういう経験はなされなくなった。
学生運動が激しかった頃は、多くの青年たちが「オルグ」され同調したり・反発したり・断ったりということを余儀なくされたし、ビラもつくったし、演説もした。そういうやつが周りにはゴロゴロ、それこそ掃いて捨てるほどいた。それは今はなくなってきている。
こうしたコミュニケーションの全てが双方向的なものでなかったにしても、相手や「大衆」に分かってもらうために工夫もし、主観的な文章や字体から、より「客観的」な文章や字体へと鍛えられたものである。大学のレポートでも、そこらの字ばかりのビラを凌駕するほどの内容と形式を備えていなければ恥ずかしいと感じられたものだ。

コミュニケーション能力の「未熟」

10年以上前から、採用の面接をしても、小論文を書かせても、内容が無い・論点が分からない、ついでに字が汚いのは男性である。飛びぬけて良いのも男性だが、大抵不採用にしたくなるのは男性である。これは不思議なほど男性につまらぬ者が多く、女性は面接時に少々難あっても仕事に優れていることが多い。偶然だろうか。
私の経験した70年代後半以降〜80年代生まれの困った青年たちはこんな面があった。

  • 話す内容も形式も主観的・独り言。相手にわかってもらうための言い回しや言葉の補いの「訓練ができていない」
  • 敬語が変。上手に言おうとはせず、場面を回避。
  • 目を見て話さない。目を見ていても口が半開き、内容ではなく語調や表情に反応しているような相槌。伝達していて不安になる。
  • パソコンができるかというとそうでもない。エクセルやワードを与えても、工夫しようとしない。エクセルなら函数の組み合わせを構築して、楽して美しくしようとか他人の作ったワークシートがどうなっているか見ようとしない。感心するだけ。文書も文字の大きさ・段落わけなどが読み手を無視。対案を示して、それが美しく読みやすいと同意しながら、反発心を抑圧しながら反発しているのか旧態のまま。
  • 仕事全体について「絵を描く」という構想力・段取り力が不足。全過程を見渡して現在を考えようとせず、言われたことだけ「文句なく」やればよいという態度
  • 何に興味があるのか、自分がどんな役回りをやりたいのか話さない。諾々と返事はする。
  • 「こんなこともできないのか!?」と思いつつ丁寧に教えて差し上げても、その作業の意図や目的が伝わっていないのか、とんちんかんな丁寧さを発揮したりする。例えば、「読みやすさ」のために例示した報告書の余白だけを厳密にマネして、フォントや行間などを全く意に介さないとか。
  • 大学卒は大学でやったこと・学んだことに誇りを持っていないらしい。
  • 思いやりが無い。他の青年を平気で蔑視することを言う。自省力が無いのだろうかと思うことがあった。

よく、「仕事もできないくせに権利ばかり口にする」と青年が叩かれることがあった。それはその通りだと思うことが少なくなかった。
どういうことか。彼等がやった仕事を全部点検して、時には全部やり直しをし、指摘しても指導しても受け止めない。どうもその仕事のことが分かっていないようでもある。だから、彼らの間違いを指摘しても、それは教え方が悪い・聞いていない・意味が分からないというような反応になる。さらに教えようとすると、終業時間だから帰るという。納期との関係での日程を提案すると有給休暇は権利だから休ませろという。君たちがそうして休んでいる間、誰が納期に間に合わせるのか考えたことがあるかい? と返して日程を調整したが、こうした仕事を始めた頃の青年たち・新入職員たちへのイライラはなかなか消えないものだと、今にして知る。



職場の先輩たちの「コミュニケーション能力不全」

自分が怒鳴りそうになった、もしくは怒鳴りつけてしまった例を挙げると、限りが無いくらいだ。でも、一つにはこちらの側にも余裕が無かったということもある、と反省する。
では先輩たち、中壮年たち・職場にはどのような問題があるだろうか。

  • 即戦力だけが欲しいという余裕の無さ
  • 資格や「キャリア」があれば「即戦力」になるという互いの幻想。
  • 資格と品性は無関係
  • 次々と変わる法制度・ルール・技術に対応するのでいっぱいいっぱい、教育的視点が持てない
  • 徒弟制度的無計画的「教育」
  • 即戦力が必要だから、青年たちに指示する仕事が断片的。余計な失敗はしてほしくない。
  • 仕事全体の構想力を養う指導をやってる暇が無い
  • 中壮年・中堅どころも不況や世の中や仕事の変化に追いつけないことなどから、仕事=人生に長期的な構想が持てない。
  • 一仕事終わって、青年に語りかける哲学がない、薄れている。

幸いというか不幸にしてというか、筆者の職場は年功序列であり、第二組合も無い。成果主義賃金による分断や、やりたくないことの「強制」やというのは経験があまり無い。そのかわりか賃金も低い。だから、私にはこの程度の「反省」しかできない。


青年のコミュニケーション能力はどのようにして身について伸張するのか

と言っても、私は本件についての専門家でもなければ、勉強もしたことも無い。個人的経験の枠内での思いつきである。私が念頭においているのは、驚くほど「やる気がない」「飲み込みが悪い」「手際が悪い」「結果がいい加減でも平然」「必要以上に萎縮」というような印象を持ったことのある青年たちの、私にとって不満であった諸側面である。

  • コミュニケーション能力が実生活において、その能力だけが伸長するということは考えられないし、こっけいである。(英語で想いを伝えたい相手が居ない私には、英会話を習いに行く人の喜びがよく分からない)
  • 相手に伝えたいこと・意欲・内容が先行すべき。
  • やる気がないと思われるのは損。コミュニケーションの絶対量が減っていくし、質も下がる。
  • 作業上の手順などではなく就職した仕事や職場について言いたいことが自分でも分からないなら、その業種や業務の意義を考えてみよう。そこで自分はどんな役割を果たしたいのか、果たしたくないのか。
  • [自分−職場−仕事−社会(ユーザ)]、[今−(中期構想)−長期目標]、というような想いを往復させているか?
  • 考えを断片で終わらせない努力。文章を書くもよし、諸団体の勉強会に行くもよし。文章をたくさん読む。
  • 携帯電話でのメールや立ち話的な会話で時間をつぶして、考えが断片的なままにならないかしら。

会話・思考、コミュニケーションの絶対量が不足しているのでは?

おじさん臭くくだくだ書いてみたが、青年のコミュニケーション能力が現場で問題になっているとしたら……

  • その青年の生育歴上のコミュニケーションの絶対量不足によると思われる当該能力発達不全
  • コミュニケーション能力発達不全に基づいているであろう「構想力」不足からくる情報の<伝達・受容>素地の脆弱・希薄
  • 当該青年と当該青年以外の当事者との間のコミュニケーション不足

と思うのですが。