▼スポーツと思想、人格

体育社会学・もしくは社会体育

高校生も青年である。スポーツは青年の権利である。青年だけではないみんなの権利である。
しかし、スポーツを楽しむには、

  1. カネ
  2. 時間
  3. 仲間
  4. 技術・技能

のいずれもが必要である。青年に仲間がいたとしても、他のいずれか・いずれもがない。
4番目の技術・技能は、スポーツを始める時に問われるハードルである。


近代スポーツと民主主義

近代スポーツは市民革命以後急速に大衆化し、ルールも整備されたことは、スポーツの歴史やスポーツ社会学をお勉強すれば、初歩的な知識として取上げられているのである。
スポーツそのものは本質的に民主的=対等平等にプレーされることを求めている。
そこから、フェアプレーの精神や人格が形成されることが期待される。

スポーツ青年の不祥事

ところが、学校の体育会系クラブはどうか。
理不尽なしごき、リンチ、飲酒、喫煙、暴力などが横行し・隠蔽されている場合が少なくない。「雑記」なので「多い」とは書かないが、少なくもないのではないか?
例えば駒○○小牧高校の野球部
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=429793&log=20060314

 「少年たちの振る舞いを苦々しく見ている地元住民の間では、『あそこの野球部は少年犯罪のデパートのような集団』」「(非行少年を収監する)鑑別所のようだ」と、もうぼろくそ。
 しかも香田監督の暴力指導も槍玉にあがっている。野球部長が暴力事件で辞めさせられたが、その時に監督がしらないわけはない思っていた。やっぱりということだ。
 記事には部員の喫煙、万引き、バチスロ、窃盗と耳目をおおいたくなるような話がわんさか。香田監督の指導者としての資質にも問題がありそうだし、「勝てば何やってもいい」という奢りが、この高校に染み付いている。 

そして、元京大アメフト部員
http://www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060127-0004.html

 京都大学アメリカンフットボール部の元部員3人が女子大生2人に集団で乱暴したとして、集団強姦(ごうかん)容疑で26日、京都府警川端署に逮捕された。3人の元部員は昨年12月、鍋パーティーに女子大生を誘い出し、乱暴することを計画。京都市左京区内のマンションで2人を泥酔させ、乱暴した疑い。
(日刊スポーツ 2006/1/27)

これは、社会面で取上げられているけれど、逮捕されたのは元アメフト部員のつながりの者たちなのだからスポーツ欄で取上げるのが正しいのでは?

人格はいかに形成されるのか

ロシアの元大統領エリツィンも現大統領のモロゾフプーチンも、元はと言えば反資本主義の先鋒ソビエト共産党のエリートであったはずなのに、つまり少なくとも資本主義の悪い面の知識は持ち合わせていたはずなのに、社会主義的な思想も人格は形成されなかったようだ。
復唱される言語ですら思想も人格も形成しない。どうしてスポーツが人格を形成できようか? 少なくとも手放しでスポーツに信頼を寄せることは断じてできないのである。
一般に運動クラブには、肉体的な健康のほかに規律・協調性・社会性などの形成が期待されるようだし、青年層における社会規範の希薄化・不徹底に対して運動クラブを推奨したり、果ては運動クラブの延長としての軍隊を推奨する意見も根強くあるようであるが、かような閉鎖集団に属して筋肉にいくら乳酸を蓄積したとしても、規範どころか反社会的な人物を輩出するのが関の山、という可能性を否定しきれないのである。
それはあたかも、ソ連を以ってして、社会主義は人間否定だとする論と形式は同じである。

スポーツも社会主義も人間らしい人間を形成するという(できなかった・できないという)理論を整備構築しなければならない。