カムイ伝にみる青年と自由

格差社会」については「流行語」に終わらせず、はっきり定義してきっちり克服していかなければならないと思う、今日この頃の私です。
中西新太郎氏の文章はなぜか苦手で、まとめるのに時間がかかりそうです。

前近代的な様相を帯びてきたのか日本は──新身分社会としての格差社会

今日、社会が江戸時代と戦国時代に似てきたなと思った。日本史は苦手なので、あくまで私のイメージの話。
幕府は金を借りている豪商大大名、上層武士階級のための政治をしている。
幕府と大大名の家老や老中など一部のエリートは戦争をしながら豪商と結びついてあくどいまつりごとを行っている。(汚職政治家のイメージとしての)田沼意次のように、景気を良くするため、民のためと言いながら職務上の地位を利用した収賄事件や天下りは日常茶飯である。もう、これだけ露骨な世の中になったのだから、いいかげん現代でも、お上は庶民のためではなく大企業のための政治を行っていて、「庶民はそのおこぼれに預かれよ」「大企業を助けねばおこぼれは無いのだぞ」と言われていること。国民が国の主人公ではなく雑兵か江戸時代の農民のような立場なのだということに、国民は気づかねばならないのに。
下層武士階級はどうか。合戦に次ぐ合戦で、討ち死・過労死、戦に負ければ浪人である。戦が無くても扶持を減らされたり、浪人したりである。妻も内職をするが、子を藩校に行かせるには稼ぎが足りない。寺子屋すら有料である。弁当を持たずに手習いに来る武家の子弟も増えてきた。藩から無用者扱いされ、将来を悲観して首をくくる下級武士や郷士、浪人が後を絶たない。彼らは武士道を奉じてはいるが、農民とかわらないか命の軽さは農民以下かもしれないことに気づかないか、気づかないふりをしているのだろう。
もともと武士といっても、圧倒的多数の下層武士は合戦に借り出された農民である。農地が合戦で踏み荒らされ、農業もままならないし、ひょっとすると、手柄を立てれば太閤様になった堀江丸のように一発大名になれるかもしれない。でもひとたび武士となれば、なかなか虫けら同然の農民にはなりたくないのだろう。
農民はどうか。下層武士から農民になったものも少なくはない。農民は士農工商の序列では上位ではあるが、実際には社会を支えているにもかかわらず、徹底的な収奪にさらされている階級である。知識も技術も与えられず、無権利状態のまま生産手段たる土地に縛り付けられている。農民の団結は禁止されているか、自ら団結をやめている。
豪農・富農、中農、自作農、水呑み百姓、小作、下人とさまざまな階層が農民の中にもあって、年貢を取られるという点では利害は同一であるはずなのに、彼等相互の利害関係は直接的には対立的である。下層のものは常に上層のものに蔑まれ、収奪されている。それが身分というものだ。自作農はいつでも小作農に転落し、小作農はいつでも下人に転落する可能性を秘めている。富農も転落の危険から全く自由であるというわけではなく、近年、飢饉と年貢の過重とで「つぶれ」てしまう者もある。
ニートやフリーターなどはこの比喩の中では、下人・渡り職人あるいは賎民である。彼らは社会を支えていることになっている主たる産業の従事から全く遠ざけられているか、臨時雇用である。合戦に借り出されることもある。農民からの転落者も少なくないが、彼らは村からつまはじきにされているか問題視されている。


抜け出せない・越えられない階級
どの階級に出生してもその階級を超えて出世することは稀である。貧農に生まれた子が、武士として藩に取り立てられ、家老になることは皆無に近い。下層武士が大名になることも皆無に近い。転落は容易だが、上昇は1ランクくらいである。
現代において、これだけ可処分所得が削られ、失業が増え、学費が上がれば、家庭の経済的事情によって進路と「落ち着く階層」は始めから決められているようなものだ。この間、国立大学の学費の記事を見てびっくりしたよ。

カムイ伝におけるそれぞれの人間解放

白土三平のマンガ(劇画?)『カムイ伝』はこれまでにさまざまな人たちがありとあらゆる角度で論じてきたであろうから、今更という感じだろうが、私にはいつまでも新鮮な衝撃である。
カムイ伝」は正確性は別として、マルクス主義史的唯物論の諸公式を物語にしたという性格が強いと思う。そしてそれは見事だと思う。
たとえば飢餓に喘ぐ非人の救済を農民による炊き出しに押し付け、農民の恨みが非人に向くように仕向ける例など、底辺労働者が生活保護世帯を憎むような気持ちを生み出させる現代と構図が全く同じである。

カムイ

非人の子カムイは、さしあたり自己の解放のために並外れた強さを持つ忍者になる。しかし下忍であって自らを身分社会から解放することはできなかったし、非人も農民も誰一人として自由にしてやることはできなかった。ついに彼は徳川家の身分上の秘密を暴き出すが、個人の力あるいはテロによって身分体制は覆るはずもなく、たった一人の姉の幸福さえ保障してやれなかった。

草加竜之進

竜之進は日置藩次席家老の子であったが、一門断絶。苦難の末、ついには同地の代官として善政を敷こうとするが、善政によって農民を解放することはできなかったし、非人たちを解放することもできなかった。自らの身分にしがみつく武士に嫌気がさした彼は、最後的には農民一揆に自らと下層民の解放の望みをかけて加担するが、もとより敗北は覚悟の上であった。

正助

生産手段を持たぬ下人から自作農になった正助は、法度を犯して知識を得、農具の工夫や土木工事によって生産力を高めることで人口を増やし、農民を解放しようとする。藩も治安と身分制度の許す範囲内でこれを奨励。しかし最後的には飢饉や商業資本による収奪などにより、極貧・壊滅の危機にさらされた村の兆散そして一揆を組織し強訴する。一揆等によって悪代官の排除に成功するが自らも徹底した陰惨な弾圧を受ける。

後に何が残ったか

カムイ伝』は悲劇である。しかも展望が見えない悲劇である。一揆の後に何が残ったか? より発達した生産力と農民の抵抗組織である、ということがより激しい階級闘争を予言して『カムイ伝』は長い中断となるのである。(私は続は読んでいません)

主権者として自覚し行動すること

カムイの時代と現代と何が違うのか。同じような身分社会=格差社会でありながら、民衆において決定的に違うのは、民衆が「主権者」であるということである。
カムイの時代の民衆は「無権者」であったから、自己主張すること、自らの利害のために行動することは法的にも道徳的にも許されざることであった。そこでの諸個人は、マルクス『経済学批判要綱』に言うところの「偶然的個人」に過ぎない。
しかるに現代、民衆は主権者である。にも関わらず、無権者のごとく生活していないだろうか。
民衆が自らを解放するに、現代においてさしあたり「一揆」を起こす必要は無く「主権者」として自らを自覚し、「主権者」として自らの利害を主張して行動すれば良く、生物学的な命を掛ける必要もない。しかしそれ以外に道は無いのである。「主権者」としての行動は何も投票行動だけではない。自らを組織することも労働諸法によって守られ・団結し、行動することも、請願することも表現することも、訴訟を起こすことも合法である。(盗聴されたり、事前逮捕されたりすることはあるかもね!)
青年がもし無力感に打ちのめされているのなら、自らが生得的に持っているとされるありとあらゆる権利を身につけ行使すること(網羅的にではなく)抜きに「青年の未来」はないのではなかろうか。




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