日本型青年期の終焉と青年の自立

中西新太郎「青年層の現実に即して社会的自立像を組みかえる」『未来への学力と日本の教育5──ニート・フリーターと学力』佐藤洋作・平塚眞樹 編著 明石書店 2005年11月
を読みましょか。

青年の自立


私がブログの名前を「青年の発達と未来」とし、カテゴリーを「青年の課題」としているのは、「青年の自立」ということを書きたくなかったからです。どうも、今困難に直面している青年たちに「新人類」の私が「自立(しなさい)」というようなことを言える能力も資格も無いように思えるのと、いかにも、オトナが若い衆に向かってオトナの尺度を投げかけるようで、そこには青年の「発達」としての自立はないと考えたからです。「自立しろ」と言うのは「未熟」な青年に対する「道徳的非難」であって、それに直接応えるのは「発達」ではなく「適応」に過ぎないような気がするわけです。
一方、青年なりに「自立した」と腹の底から言える自分を目指してがんばっているでしょう。そのことは一緒に考えて行きたい。同時にそれは「新人類」の課題でもあります。そこには「課題」があるはずだ。どんな課題がどのように待ち受けているのか。だから「青年の課題」というカテゴリーにしたわけです。

今日は、文献に「自立」という用語が使用されているので、とうとう「自立」を表題に用いました。

日本型青年期の終焉

〔日本型青年期の終焉とフリーター、ニートの増加〕

さて、ここからノートです。
増加してきたフリーターやニートに関しては、社会に出ることの忌避傾向、未熟な職業・進路意識、労働意欲の欠如、社会や責任についての無関心、「何がしたいかわからない」などアイデンティティの未熟など、不労生活者であるしその能力も意欲もない、この労働社会において不道徳な存在である、だから問題であるというような屈辱感を与えるような論調が幅を利かせている。
しかし、これらの青年は、財界が「日本型経営の転換」を叫び、財界の意をそのままに政府が雇用のルールをめちゃくちゃにし、従来の「学校→就職→社会的自立」という「日本型青年期」(乾彰夫氏)の崩壊に素直に反応しているだけに過ぎない。道徳的退廃が進んできたわけではない。

〔社会システムの方が変わるべき〕

政府の若者自立支援政策は、雇用流動化政策等によって従来の青年の自立の道筋をずたずたに破壊しておきながら、一方で自立できないでいる青年のあり方だけを問題とし「矯正」しようとしている。そうではなく、青年の現実に沿った新しい自立像を構想しなければならないが、それには社会システムのほうこそ変えなければならない。

〔社会的自立とは〕

新しい自立像の構想のために踏まえなければならない青年の現実はどのようなものか。


 現代日本の青年層が直面している困難に階層性が深く刻印されている点の確認も重要である。非正規・不安定就業の世界へと送り出される若者たちと、「勝ち組」の自立コースを歩む若者たちとのあいだでの亀裂、分断は現実のうえでも意識上でも急激に拡大しつつある。新自由主義的教育改革(によって)……日本型青年期における競争とは異なる「競争──選別」状況が出現しつつある。

こうした格差やジェンダーによる差異、フリーターとニートの区別などが、青年の新しい自立像構築のためには踏まえられるべきである。

徹底した能力主義を目指す新自由主義の自立像

「自立」できていないのは「個人の能力」の問題「自立能力」の問題である、と財界や政府は考えている。だから、政策理念としては「個体能力」志向となる。

〔個体能力志向スキームの問題点〕

自立が困難になった社会はそのままにするなら、青年の側に「自立能力」を養わせる手立てを講ずることだけが「自立支援」となる。
「自立能力」訓練論の問題は、その現実的結果が強い序列・選別となりかねないことである。
政策の側としては、「リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的支援によって作り出せるかどうかが、今後の日本社会の活性化の鍵」(山田昌弘希望格差社会筑摩書房 2004年)となる。

〔それぞれの自立の落ち着くところ〕

この自立の追求は現実的には職業社会の中での住み分けを目指すことになる。自立能力の有無は雇用流動化の下で安定した職業的地位に到達しえたかどうかで決まる。
その競争的自立の頂点には


……ホリエモン型の自立、すなわち新自由主義型上昇自立のコースをおく。そうした上昇の全てを若者が望むかどうかではなく、その種の自立コースが、拝金主義とか出世主義とかいった非難を浴びることなく「正統な市民権」を付与されることが重要なのである。社会人のモデルとして、いわば従来の勤勉力行表彰(企業戦士)に代わって、「邪心」のない「純粋で率直な」欲望追求のふるまいが肯定され推奨されること。各人が運良く利用できる資源(コネであれ親の資力であれ)を悪びれずに用いる屈託のなさや、起業に象徴される「自律性」=自己責任論に基づく自立など、要するに、動員することのできる資源を駆使して社会内に位置を占めようとする努力と能力の発揮こそが多様な職業的社会化を貫く推進原理となること。これが、新自由主義型上昇自立コースの受容の意味である。

人間力」開発

働くことは、社会に出ること、社会のなかで、人と交流して、協力し合い、自立したひとりの人間として力強く生きていく。そのための総合的なチカラを、〔若者の人間力を高めるための〕国民運動では「人間力」と呼んでいます。

こうした認識は、職業能力の獲得過程に限局した「自立支援」では足りないこと、社会自体が変容していることを踏まえ「社会性」の獲得やコミュニケーション能力形成などを問題にしている点では正しい。しかし、文脈としては新自由主義的な二層(エリートと下層労働者)の人材育成が目指されている中の「人間力」であることから、その自立像の狭隘化や就労対策への単純な収斂、能力間の単なる就労への従属などが懸念される。すなわち「企業要求」に応え「即戦力」として「雇われやすい」青年の養成を「能力開発」の焦点にしてしまう。