格差社会の再生産と差別分別教育体制

未来経済研究室

小村智宏(おむらともひろ)氏 三井物産戦略研究所 経済・産業分析室 主任研究員

これからの「仕事」−人生モデルの変容と新しい「豊かさ」−

「消費とリテールの、過去、現在、未来を読み解く」 第6回 2005年9月22日(当該論文のページにうまくリンクできない。探してください)
小村氏は言う。画面節約のため、自分の理解の範囲内で編集させていただく。
引用・紹介の前に私見を述べる。別に小村氏の見解がけしからんとまで言いたいわけではない。ただ、こうしたアナリストというのか、経済関連の人たちは、現状を無批判に追認したあと「これからどうなる」「これからどうする」という書き方をするが、それは「現実的」であるが故にか、世の中に受け入れられやすいものだ。
「日本型雇用」が崩壊したことをまず述べているが、「日本型雇用」がまさに「日本型」である不幸については言及されない。つまり、学歴によってスタートラインが仕切られ、そこから自らの老後と家族の扶養・教育・住宅と、家族を形成するにつれ増大する必要経費が織り込まれていて、それが一種の社会保障になっていて、社会制度としての社会保障や教育保障、住宅保障が貧困なままであることについては触れられない。いいだろう。
その日本型雇用が企業の側の一方的な都合によって崩壊した。そうかい。労働者にはこれっぽっちの責任もないがリストラが常態と化している。
これではやる気がなくなるのは当たり前だと正当にも指摘している。しかし、「良い大学」が無意味になったわけではない。やはり「良い大学」は残るのだが、「普通」の大学「普通」の会社、そしてそれら以下、つまりごく少数の「良い大学」以外はすべてさまざまな底辺を形作るようになるであろうというわけである。そしてそれら従来の普通の大学は普遍的な真理を追究する学術的な大学ではなく、実学を身につけさせるような職業訓練校になるだろうというわけだ。そうでなければ大学も生き残ることができないのであろう。高給・高報酬を得られる技術や知識を身につけることができるとされる大学は「二番目に良い大学」になるだろうし、薄給・低報酬の技能しか得られない大学は「底辺校」となるだろう。別にこれまでと何ら変わらない。ますますえげつなく・露骨になるだけの話である。
で、ダメなやつだと生まれてから延々と20年前後かけて烙印を芯まで焼き入れされた底辺層は生産業の補助的役割を担わされる。そこでは青年たちと未年金・低年金の高齢者たちとが生死を掛けた競争が行われるであろう。健康を犠牲にしても病気にならない屈強な者たちがその座を得続けることができるし、そうでない者たちは一時的にその階層に居た後、更に下層の就業に下るか、廃兵院(居宅)送りとなる。なんとかしてやらないとスラムが広がり暴動が起きるのだが、ここでは「なんとかしてやる」程度以上のことはありえない。だって、そういう社会階層を生み出すような仕組みになっているのだから。
結論。できること(振り分けられた職業訓練校)がやりたいことになったらいいな。というわけであるが、ますます差別選別の教育が強まり・競争が低年齢化するであろうし、子どもの「荒れ」ばかりか、親の「荒れ」も低年齢化するだろう。
小村氏の現実的な予測はこうしたものではなかろうか。

「良い大学、良い会社」モデルの崩壊

 良い大学を出て、良い会社に入ることが、生涯の安泰を保証する、人生における成功モデルであった時代は終焉を迎えつつあることも、その表れの一つである。
 戦後の大学の増設と産業の発展を背景に成立した「良い大学、良い会社」という人生モデルは、落ちこぼれや不登校といった「敗者の問題」を生じさせつつも、大学入試というまがりなりにも客観的な指標に基づく序列付けによって、敗者にもその社会的地位に甘んじることを納得させることで、社会の秩序と安定の維持に貢献してきた。
 そのモデルが崩れた直接の契機は、1990年代の長期不況の過程で多くの企業が終身雇用制を維持できなくなり、リストラが日常化したことにある。リストラの脅威は大企業の管理職層にまで及んだ。人生モデルの重要な要素である「一生安泰」の前提が崩れたのである。「良い大学、良い会社」のモデルは、敗者の問題を深刻化させる一方で勝者は不在という不毛な競争を残し、人生モデルとしての機能を失ってしまった。
 こうした事態は、「一生安泰」というメリットが疑わしくなった以上、いわゆる「良い会社」に就職しようというインセンティブが薄れ、別の進路を目指す者が増えるのは、至極当たり前の反応と言えるだろう。
 「良い大学、良い会社」のモデルの崩壊が明確になるにつれて、子供たちが「良い大学」を目指して勉強につぎ込むエネルギーも減退していく可能性が高い。近年指摘されている小中学生から大学生までに及ぶ学力低下の問題も、学校で教える内容や教え方が悪くなったとか時代にそぐわなくなったというよりも、人生モデルが失われたことで、すでに子供たちの勉強に対する意欲が衰えはじめているためではないだろうか。

会社に依存しない三つの道

 企業の終身雇用制を建て直すことは、人口が減少に転じ、成長が鈍化することが確実なこれからの日本の経済環境を考えると、広範な企業に終身雇用制の維持を求めるのは、今後さらに難しくなるだろう。
 また、高齢者比率が上昇することで、終身雇用制を維持していくことが難しくなるという側面もある。旧来型終身雇用モデルでは、定年後の生活には年金や医療保険によるサポートが前提とされてきた。しかし、高齢者比率の上昇で、現役世代と引退後の人々の数的なバランスが崩れることで、それらの仕組みを維持することが難しくなってきている。
 これからの時代、大多数の人が、従来以上に長く現役で働き続けることを避けられなくなる。とはいえ、企業に定年延長や定年後の再雇用の受け皿を用意することを期待できる状況ではない。これから仕事を選択する世代では、そもそも定年のある働き方ではなく、高齢になっても続けられる仕事を選択する方が、本人にとっても社会にとっても望ましい。
 そのための第一の選択肢は自営業だ。旧態依然とした農業や小売業では難しいが、新しい技術や斬新なアイデアをベースに、新たに企業を起こしていくことは有力な選択肢となる。
 第二に、専門性の高い職種も有望だ。
 そして第三には、低賃金で生産活動の補助的な業務を担う「ユーティリティ・ワーカー」の道がある。現在のフリーターの一部もこれにあたるが、高齢者の雇用のかなりの部分が、そうした低賃金労働で占められてきた。これからの時代にも、この種の労働力へのニーズがなくなることはない。
 これら三つの選択肢は、旧来型モデルの崩壊に際して若者たちが見せた動きとオーバーラップする。

専門職・技術職を目指すコースが新しいモデルに

 それでは新しい人生モデルは、どのようなものになるだろうか。まず言えることは、専門的な職業教育の枠組みが、重要な役割を果たすだろうということだ。
 個人の判断と費用負担で専門的な職業教育課程を履修して、専門職・技術職を目指す若者が増えることは、企業にとっても望ましい展開と言える。
 「職業教育機関から専門職・技術職」というコースは、これからの時代の標準的人生モデルの根幹を成すものと想定される。そのモデルは、一つの物差しで序列を付けられる単線階層型の旧来型モデルとは異なり、学ぶ内容も学ぶ場も多様な、複線型のモデルになることが予想される。
 専門職コースに進まない者の多くは、現在のフリーターも含め、ユーティリティ・ワーカーの道を選ぶことになるだろう。社会制度が現状のままであれば、低賃金のユーティリティ・ワーカーは社会的弱者の地位に甘んじざるを得ない。そうなると、日本の社会は二極化、階層化の流れを強めることになる。
 その一方で、二極化や階層化を緩和するための施策が採られる可能性も高い。今後、旧来型モデルにおける正社員の枠が拡大することを期待できないことを考えると、二極化の緩和策としては、社会保障や税制を企業の正社員であることを前提としないものに組み替えることで、ユーティリティ・ワーカーの経済的な処遇を向上させる施策が中心になるだろう。そうした施策は、ユーティリティ・ワーカーと同様、特定の企業に依存しない、専門職・技術職の人々や自営業者にも恩恵を及ぼすことになるものと考えられる。
 また、社会的な地位の面での配慮が求められる。旧来型の「良い大学、良い会社」のモデルにおける常識にとらわれて、フリーターの生き方を否定したことが、その他の選択肢を持たなかった若者たちを「ニート」と呼ばれる不幸な境遇に追い込んだ可能性もある。そうした事態を避けるためにも、フリーターやユーティリティ・ワーカーをいたずらに貶めず、社会において一定の役割を果たす存在として正当に位置付けていくことが必要だろう。

これからの「豊かさ」は仕事から

 若い世代の進路選択が、起業や資格取得、NPONGO、あるいはフリーターと、会社に依存しないさまざまな方向へ広がっているのは、終身雇用を維持できなくなったという企業側の要因だけによるものではない。その背景には、「本当にやりたい仕事をしたい」「やりたくない仕事には就きたくない」といった若者たち自身の強い思いが間違いなく存在している。
 生産活動が大規模化し、企業を単位とするようになったことで、個々人が受け持つ仕事は生産過程のごく一部に細分化されてしまった。それによって生産効率は向上し、物質的な豊かさは実現できたわけだが、それと引き換えに、仕事にともなう確かな充足感や達成感は失われていったのである。
 本当にやりたい仕事に就きたいと願うのは、消費生活においてだけでなく、仕事においても豊かな生き方をしたいということである。自分の能力を発揮できたり、何らかの喜びを感じられる仕事のことだろう。誰もが、そうした意味でのやりたい仕事に就ける社会は、理想的ではあるが、今の時点では現実的ではない。
 しかし、「職業教育機関から専門職・技術職」のモデルが確立し一般化されれば、その理想に一歩近づくことにもなる。