▼放送における中立・公正とは何か

放送における中立・公正とは何か

放送倫理・番組向上機構放送倫理検証委員会が、NHK教育テレビ『ETV2001シリーズ戦争をどう裁くか』第2回「問われる戦時性暴力」に関する意見(PDF)を先日発表した。委員の中には好きじゃない人もいるけれど。
長文ではあるが読み応えのある決定であった。

 私たちはこの〔NHKの〕回答書が示唆するような、中立・公平性とは、特定の意見を機械的に排除したり、場合によっては単純に並立させることによって実現されるものである、という考え方を採らない。本来の中立・公平性は、多様で混沌とした意見や対立する両極の見解を粘り強く聞き、咀嚼し、議論し、みずから考え、判断することによって初めて実現するものではないか。これこそが、自主・自律の本義であり、民主主義の根底にあるのも、こうしたダイナミックな原則であろう。
 ……詳しくは本文で述べるように、NHKの回答書にあったような機械的・単純な中立・公平性の考え方が、じつは当該番組の改編過程にも作用し、結果として深刻な問題を引き起こすに至ったのだ、ということをあらかじめ指摘しておきたい。

これは前書き部分からの引用。中立・公正全般をこのように定義するのは言葉足らずかもしれないが、本文全体とあわせ、よくかみ締めるべき意見であると思った。そうでなくても、NHKは著しく中立性・公平性に欠けた番組や報道を行なうと、最近よく思う。政治、政党、のみならず傷害事件などでも、容疑者・無職・精神病者(推定)・障害者は犯罪者扱いのような言葉遣いのことがあるし、北朝鮮については何事も敵視報道ではないか。

戦時暴力

この委員会の決定で紹介された、NHKの『ETV2001シリーズ戦争をどう裁くか』についての紹介は、私はその番組シリーズを観ていなかったので、興味深かった。

 『ETV2001シリーズ戦争をどう裁くか』の全体的な企画趣旨は、番組中でしばしば説明されたように、20世紀の戦争や地域・民族紛争のなかで起きた人権侵害や残虐行為を、「人道に対する罪」という、近年、国際法が切り開いてきたあらたな枠組みのなかでとらえ直し、平和な未来への道筋を探る、というものであった。

以下、PDFファイルの12ページ以降に各回ごとの内容が紹介されている。以下の引用は部分・或いは編集。

第1回「人道に対する罪」01年1月29日放送
 第2次世界大戦後、ナチス・ドイツを「人道に対する罪」として裁いて以降、戦争や紛争時の一般住民に対する殺害、強制移送、政治的・人種的・宗教的理由による迫害等も同種の犯罪と見なす動きが芽生えた。
戦後ドイツはユダヤ人強制労働に対しても、政府と企業が合同で、約100万人にのぼる被害者とその家族に補償をする制度を作った。
 フランスでは70年代以降、ナチス・ドイツに協力したヴィシー政権への批判が本格化した。その一方で、独立を求めた植民地アルジェリアに過酷な弾圧を加え、国内在住のアルジェリア人を多数虐殺した状況についても検証が始まっている。だが、その取り組みにはまだ及び腰のところがあり、ダブルスタンダードが指摘されている。
いずれにせよ、長年隠されてきた歴史の暗部に光が当てられるようになった。これは作家や市民による粘り強い調査活動があった。戦争の勝者・敗者の別を超えて、人間の尊厳を破壊する行為は人道に対する罪であるという認識が、現代のヨーロッパ社会に浸透しつつある。

第2回「問われる戦時性暴力」01年1月30日放送
従軍慰安婦問題等について、『女性法廷』について
(これが安倍官房副長官にわざわざ意見を聞きに行って、「忖度」して「自由に」「中立・公正を期して」大幅編集した番組)

第3回「いまも続く戦時性暴力」01年1月31日放送
00年12月、第2回で扱った女性法廷につづいて、国際公聴会「現代の紛争下の女性に対する犯罪」が開催され、世界各地の女性たちがみずからが被った拷問と強姦の体験を語った。これらの残虐行為を人道に対する罪としてとらえる動きは、90年代のドイツにおいて、第2次大戦中の強制収容所内で行われたユダヤ人女性へのレイプが暴かれたことに始まる。
中部アフリカのブルンジから参加した女性は、政府軍と反政府軍の双方の兵士にレイプされ、その上、エイズに感染させられ、生きる気力を失った心境を語った。ソマリアの女性は国連平和維持軍兵士にレイプされた体験を証言する予定だったが、公聴会の朝にかかってきた国際電話によって沈黙を強いられた。政府軍兵士によって繰り返し拷問とレイプの被害を受けたグアテマラの女性は、絶望から立ち直っていくために、敬意を持って被害者の体験を受け止めてくれる家族と他者がいてくれることの大切さを語った。
紛争や戦争のなかで、なぜこのような犯罪が繰り返されるのか。それは不断に形成された男女の社会的関係の反映であり、女性への加害は、敵の男の所有物に対する攻撃や破壊と見なされているからだろう。国連平和維持軍の兵士までが同様の行為をする現実は、軍事主義そのものの暴力性を示している。
被害女性たちがそのつらい体験を語ってきたことが国際的な市民運動となり、人道に対する罪を裁く国際刑事裁判所の設立につながった。真相を究明し、加害者と責任者を明確に処罰することが、こうした犯罪を抑止する力になっていく。だが、日本など主要国はこの裁判所設立に関する条約を批准していない(注)。平和な文化を創っていく転換点に、いま世界は立っている。

第4回「和解は可能か」01年2月1日放送
グアテマラ、チリ、アルジェリア、そして、南アフリカ……。政治や宗教や人種を理由に激しい弾圧と殺戮と人権蹂躙が繰り返されてきた国々で、いま、和解を進める試みが始まっている。
 和解はひとつひとつの事件の真実究明なしには進まない、和解プロセスを社会化し、承認し合おうという試みだった。しかし、家族を殺された遺族たちは、心の整理がつかない。赦すとは、どういうことか。……

4回のシリーズを通じて明らかになったのは、過去を直視し、受け止めることがなければ、現在の危険性について気づくことも、新しい未来を切り開くこともできない、ということだった。
 それはつまり、「人道に対する罪」という視点から、20世紀に起きた戦争や武力紛
争を見直し、それらを終わったこととせず、被害者が長い年月、内に秘めてきた苦し
みを語り、加害者の責任をきちんと問い糾すこと、そのことを通じて和解への道筋を
探り、争いのない未来を創出するということであった。
 戦争を旧態依然の国対国、正義対悪の争いなどとして考えているかぎり、一般市民や住民を巻き込んで、かつてないほど大規模に、かつ虐殺や拷問やレイプをともなって凄惨に行われる現代の戦争の現実は、たんに「戦争だから仕方なかった」「命令だからやむを得なかった」ものとして見過ごされてしまう。
 しかし、数々の残虐行為には、兵士らが属す共同体の歴史や文化や意識が反映しているのであり、それらがむきだしの攻撃性や破壊力となって被害者一人ひとりに襲いかかっている、と理解されるべきである。その意味では、現代の世界と人間のありようが映し出されている。
これら残虐行為を人道に対する罪として裁き、しかし、その上で、憎しみの連鎖を断つために、和解がなければならない。真の和解のためには、被害者と加害者が個人レベルで語るだけでなく、その語りを共有し、相互に承認し、合意し合う社会的な和解プロセスが必要になる。そうした困難だが、壮大な実験も始まっている――。

NHKではいずれも再放送の予定はないという。