▼社会的排除と暴力

ぶくま代わりに。
MouRa|萱野稔人、国家|萱野稔人「交差する領域〜<政事>の思考〜」
第8回 回路からの排除がもたらすもの
http://blog.yomone.jp/kayano/2007/03/8_a171.html

社会化の回路から排除されているということがなんらかのかたちで暴力への志向性を強めている。……暴動としてあらわれるのか、「希望は、戦争」としてあらわれるのか、あるいは他者にたいする人種差別的な排除へと向かうのか、ヒステリー化したナショナリズムに向かうのか、さらには自殺や、より弱い立場にある者へのイジメに向かうのか。それは、社会のあり方や、そのなかで個人が置かれた状況、個人の性向といったものによって変わってくる。

社会から排除され、居場所を失った人たちが暴力への感受性を変化させてきている、ということにはとどまらない。統治権力がもちいる暴力のかたちも変化してきた。……強権的な取り締まりや犯罪者への不寛容、重罰化、隔離といったことが主流となっている。

暴力の体制の変化にこの社会は立ち会っているのだ、ということを認識しなくてはならない。

そういう側面もあるかとは思う。しかし、読んでると総暴力化の印象が強く、否定的な気持ちも沸く。


ただ、「認識しなくてはならない」と言うこの人の立場・立ち位置がどういうものなのか、よくわからない。