▼人格の完成 入試至上主義 学習指導要領

イデオロギー学って社会学

入試至上主義で入学後はなおざり

三菱総研 2006.11.13
MRI TODAY 入試至上主義の是正に必要なこと
科学技術研究本部 主席研究員
高橋寿夫 氏

高等学校の学習指導要領で必修としている科目を履修していない履修不足問題が社会問題となっている。大学受験に必要な科目の履修時間数を増やそうとしたために生じたことが指摘されている。
平成14年から、スーパーハイスクールという制度が実施されている。この制度は、学習指導要領に縛られずに理数系、英語に特化した授業を行うことが出来る制度であるが、学習指導要領に則っていないとかえって大学受験に不利になる、とのことで最近話題になることは少なくなっている。
かように、高校にとって大学合格実績は重要なようであるが、翻って大学側からみると、入学してくる学生の学力低下を嘆く声が後を絶たない。こうした背景には、大学入試の合格が目的化してしまっていて、真の学力を磨くことができていないことが要因としてあろう。

つまり今次単位履修不足問題は学歴社会というよりは「入試」至上主義にあると。
ところでこれから、受験生人口の減少に伴い、大学全入に近づくが、こうした「大衆化」=「低俗・低質化」に抗するには、有名大学だけではなく中堅大学にも手厚い支援を与えることで、卒業生の卒業時の大学間〔学力・能力〕格差を縮小していけば「入試の自己目的化」が避けられるのではないか、というのである。

それよりもスーパー・ハイスクールという制度があるらしいことは初めて知った。
それにしても、中期高等教育で身につけさせたい・知っておいて欲しい歴史観や社会観とはどういうものかだとか(それがあって初めて学習指導要領の批判、入試科目の批判もできように!)、未履修問題への反省の弁は管見では見受けられないのが驚きである。

追い込まれる高校

教育基本法「改正」情報センター
「未履修」問題の真の原因はどこに?──教育現場の声を無視したルールと政策を押しつける文科省の統制と、新自由主義教育政策に報道のメスを 2006/11/03
は言う。

 いわゆる「進学」を看板に掲げている少なからぬ高校で、すべての高校生に卒業に必要な必修科目として課されているはずの世界史が未履修になっている……
 今日の高校現場で、学習指導要領に抵触することは承知の上で、こうした「操作」をしてまでも「受験シフト」に走らざるを得ないところにまで追い込まれている、昨今の異様なまでの教育界の状況がなぜ生まれているのか、本当の原因がどこにあり、今、何が論じられるべきなのかが究明される必要があります。

  1. 教育とは何かという本質そのものを見失うほどに、学校現場における教育の実態に大きな「歪み」が生じてしまっている
  2. 〔こうした歪みは、〕わが国でここ十年にわたって「教育改革」の名のもとに、新自由主義的な市場競争の原理が何の検証もなく教育の世界に持ち込まれたことによって生じている。
  3. 異様な教育実態は、現行の憲法教育基本法体制に明らかに抵触する教育政策、教育行政によってもたらされている

子どもたちの人間的な自立を援助するという教育の本質(教育基本法第一条「人格の完成」)とは無縁な、数値化された目標の設定が当然のことのように学校に押し付けられています。その競争圧力は今や抜き差しならぬところまできているのです。学校教育の「成果」が、事実上、有名大学への進学者数ほぼ一点に絞られるかたちで「評価」され、少子化の進行により学校の統廃合が目の前の危機として喧騒されるなかにあっては、それが学校の「生き残り」のための重要な条件として突き付けられているのです。今日、学校教育目標として「有名国立大学へ○○人合格」を掲げることは、決して珍しいものではなくなっています。

現行の学習指導要領にまつわる経過や評価も簡潔でわかりやすいし、同感である。
内閣府 教育再生会議 高等学校における必履修教科・科目についてを見て、やたら履修科目や単位が少なくなっている(わたくしの高校時代と比べて)のに驚いてしまった。

そもそも1998年12月に改訂された高等学校の新学習指導要領(2003年より完全実施)は、学習の系統性を曖昧にした教育内容の「三割削減」だけが問題ではなく、保健体育を除く一学年次の必修教科・科目のすべてに選択制を導入し、しかも、必履修科目の多くを含め小単位化するものでした。すべての高校生が共通に学習する機会を保障し、基礎的な学力の形成と進路選択の力を育てることを困難にするものであることから、能力主義と競争原理にもとづく教育内容の差別的な「多様化」「弾力化」を進めるものであり、国家主義的な教育統制を教育課程において一層強化するものと、厳しく批判されていました。2002年の学校五日制が完全実施により、それまで隔週の土曜日に行われていた授業が完全に無くなり、絶対的な授業時数そのものが減少することによって、ますますその実施上の困難は増大しました。
しかし、いわゆる「学力低下論議を背に、教育委員会は「授業時数の確保」を絶対的な課題として学校に命じ、高校現場では授業時数増、変形授業時間の導入、二(学)期制の導入、学校行事の削減などが行われ、生徒にも教師にも全く「ゆとり」のない学校へと邁進していくことになりました。地元公立高校の大学進学実績のより一層の積み上げを求めるマスコミの論調が、こうした動きに拍車をかけたことは言うまでもありません。
先のような有形・無形の「競争圧力」のもとに置かれている学校現場では、にわかに対応しかねるようなかたちで必修科目・単位数が学習指導要領に定められ、それが有無を言わさぬかたちで一方的に強制されてきたことの責任こそが問われなければなりません。

しかし、こうした批判の弁が圧倒的に少なく、「どうしていまさら公然の秘密を暴いてどうするのか、迷惑だ、受験生がかわいそうだ」というような受験生を盾にした開き直りばかりが眼に入る。
げんなりである。