▼「格差社会」はわれわれを鍛える

『さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する』 kamiyam_yさん

「格差社会」と相互承認

マルクスからも経済学からも、何年間も遠ざかっているので、書くことが少し的外れかもしれないが、感想のようなものを書いてみる。
くれぐれも素人ですので、間違っていても噛み付かないでくださいね。

格差社会」は資本主義的な疎外社会であり、疎外の深化はわれわれの民主主義的力能を鍛える

類的本質とか理性とか自己実現とか相互承認とか、楽しそうな用語が並んでいるよ。

自分なりの要約

格差社会」はすぐれて資本主義的な相互承認の疎外の問題である。
相互承認の疎外は、人格の物象化による資本への包摂として現れる。

格差社会」=承認されない都市弱者の形成において、弱者は「他者を引きずり落とせば自由が得られるだろうという幻想を」持つ。
ナショナリスティックな集団幻想、排外主義は、彼らに仮初めの承認を与え、現実の分裂を固定する。

格差社会」=承認の疎外は、このような諸幻想に基づき、社会の抗争を激化し、諸個人の犠牲を増大し、権利侵害を拡大するというような野蛮な形で現れる場合がある。
資本主義社会の諸矛盾を暴力的・差別的・社会分裂的に「解決」するものとしてのファシズムのような野蛮な形態を避ける努力は、社会を陶冶する。
つまり人はファシズムを避ける智慧を集めることになるし、今それが求められている。

相互承認の疎外による空疎感・不満などの心理がファシズムを招くということだろうか。

格差社会」を打破するのはわかりやすいスローガン

kamiyam_y先生がおっしゃりたいのは、政党や市民大衆団体の宣言やスローガンではないだろうから、今から述べるのは、ないものねだりの感想もあるかもしれない。

「格差」は資本主義に固有ではない

ひとつには、「格差」は別に資本主義社会固有の現象ではなく、むしろ前資本主義的段階ににおいてこそ一般的だったのではないだろうか。
たしかに、先生は「「格差社会」問題は、資本主義のメタ的構造に突き当たる深くて広い問題」としか述べておらず、資本主義社会に固有という述べ方はされてないが、逆にそうであれば、格差問題は階級社会に固有な現象(或いは人間に不可避的)、ということになり、今日の「格差社会」問題を階級社会一般(もしくは人間性)の問題に解消してしまうことになってしまう。


問われているのは資本主義の是非というわけではない

資本主義に特有であれ、一般的な階級矛盾の現われであれ、今「格差社会」で問われているのは、その根源の資本主義性・階級性ということより、これまで培われ・建設し・獲得してきたものが急激に破壊されているということだと思う。
一つには、人生・生活の貧困の問題です。誰もがプロレタリア化するという窮乏化理論とは別の社会学的な生活過程の問題。
もうひとつは貧困と対極にある富裕層との越え難い格差、貧困の極側にある人たちの抜け出せない境遇という仕組み。
今、問われているのは資本主義か否かということではなく、働くルール、健康・教育・生活・老後の安心という次元のことだと思う。
さらに挙げるならば、労働の疎外、相互承認の疎外ということがあるだろうが、これはより人間的な働くルール・雇用のルールの確立で解消されることもあり、学歴社会を解決しなければどうしようもないこともあり、量的にも質的にも大きく難しい問題だと思う。



格差社会」とファシズムの連関を丁寧に。直接には無関係では。

まず、「格差社会」と排外主義やファシズムナショナリズムとは直接には無関係ではないだろうか。
貧困、疎外の状況を排外主義やナショナリズムが覆い隠したり、すり替えたり、あるいは矮小化したりということはあるだろうが、もう少し詳しく丁寧に読みたいと(書いていただきたいと)思う。
同様のことは、資本主義社会のみならず旧「社会主義」国でも現「社会主義」国でも、もっと先鋭化された形で発生していることを考えると、


《資本主義→格差社会・疎外社会→ファシズム・排外主義》
ファシズム・排外主義→原因としての格差社会・疎外社会→原因としての資本主義》
という図式的理解や解説は避けたほうがよいし、正しくもない。

追記 9/17 ファシズムの諸指標を何に求めるのかという知識も教養もなく「正しくもない」と書いてしまいました。ただし、ファシズムというイメージで理解される社会の状態……言論の統制、政治行動の制限、その他近代的基本的人権の制限、とりわけ反体制行動の制限と弾圧、隣人相互監視制度……などを想起すれば、ファシズム(=全体主義)が資本主義という政治経済体制に固有というわけではない、ということは確認されて良い。というのは、「反資本主義」「脱資本主義」「社会主義」を自称するだけでファシズムが回避されるかのような理解は事実と異なると思うからです。


唯物論 おけさほどには 広がらず(戸坂潤)

初期マルクスとかを少しかじった人は、「類的本質」などの用語には大変親しみを覚えるし、私もそうだが、そういう人は極々少数である。

「古典」の言葉では21世紀の青年たちは理解してくれないし、彼等を励ますこともできない。

90年代以降、もしくは21世紀の言葉で語りかけ・励まし・励まされなければならない。


マルクスを「格差」とたたかわせるには?

もともと「格差」を許容する資本主義社会、現代社会において、どうしてこうも「格差」を否定的に問題にするのか・できるのか。「格差があって当たり前」という開き直りに「格差」を主題に反論するのは難しいと私は今のところ思っている。むしろ「貧困」ということが問題にしやすい。

マルクス経済学、マルクス主義経済学は、現在の日本の社会状況に対してどんな力を発揮できるのだろうか。マルクス新自由主義の汚物たる格差社会とどのように戦うことができるだろうか。私にはよくわからない。
先生方の御活躍を祈念したい。

(まだ書き加えるかもしれませんが、とりあえずUPします。)