努力が報われる社会

努力が報われる社会とはどんな社会なのか。

構造改革」読み書き練習ブログ
http://literacy.jugem.jp/?eid=20
に書き込みをしました。

 譲って所得格差が出ることが直接に悪でないとしても、それでは課税はどうなっているのかということが見直されるべきだ。
配偶者控除や高齢者控除が廃止されることで、貧しい者はますます貧しい生活を強いられる一方、高額所得者は所得税だけでも99年度に、89年度以来50%だった最高税率を30%に引き下げられている。
 政府は格差が「出てしまう」ということ以上に、生活レベル・所得レベルの格差を拡大するような施策を「努力が報われる社会」という新自由主義的原理で推し進めてきた。
この「努力が報われる社会」というイデオロギーは結果の不平等を無批判に肯定・追認し、一方で機会不平等を無視し・あれこれの生存権にかかわる施策を「悪平等」として排撃するテコになっている。しかも、長時間労働・低収入で苦しんでいる労働者や零細業者を「効率が悪い」と切り捨ててしまっている。
 所得の低い者は「施しを」受ける(石原伸晃議員)、「効率の悪い」ダメな奴だという人間観が制度的にも・風潮としても広がって幅をきかせてきているのだと思う。

そのうち、学校でも少ない教師・小さな職員室とか出てくるのだろうか。
(ここでコメントを頂きましたが、大幅な変更はせずに、記事を随時書き足し・書き直ししています。)

為政者が「能力のある者が努力が報われる社会にする」と言うのをうっかり「負け組」の気持ちで受け止めると大変なことになる。

  • 今までは能力のある者もない者も努力する機会もなかったが、今後は機会平等である。
  • 今までは努力が結果として報われる社会ではなかったが、これからは努力は報われる。

 
小泉首相の発言は違う。

  • 今までは能力があろうがなかろうが、悪平等制度のおかけで「能力ある者の努力」が「能力がないか怠惰であるか、その両方である者たち」に収奪されていた。今後は社会再分配を原則なくしていくので、つかみ取りである。
  • これからは「報われない」と思うのは「能力がない」か「努力が足りない」か、その両方であるかのどれかである。