▼御手洗さんの筋肉質な希望の国についての揚げ足取りな疑問
「希望の国」を目指して
−日本記者クラブにおける御手洗会長講演− 日時: 2006年8月28日(月)
http://www.keidanren.or.jp/japanese/speech/20060828.html
を読めとメールが来たので、読んでみました。
御手洗会長が「希望の国」に至るに必要な諸課題を整理されたものです。
「すべての人に挑戦の機会が与えられ、可能性に富んだ社会」は持続的な経済成長
1990年代から今世紀初頭にかけて、世界経済は規模の拡大とグローバル化が急速に進んできた。ところが日本ではバブルの処理だ、高齢化の進展だ、少子化だ、団塊の世代の大量退職だということになっている。
これらを乗り越え「希望の国」=持続的な経済成長=「すべての人に挑戦の機会が与えられ、可能性に富んだ社会」に至るには
- 「経済の活力を高める」、
- 「人々の活力を引き出す」、
- 「内外から信頼、尊敬される国をつくる」
が重要だ。
でも、青年たちにとって「希望の国」とはどういう国なのか。調べたら面白いかもしれない。挑戦の機会よりも「健康」や「安心」が欲しいけれどな、私なんかは。あと「金持ちだけがみんなの金を総取りで懐に入れるチャンスがある」ような、コツコツ働くのが馬鹿馬鹿しくなるような社会はごめんだ。
経済の活力を高めるには
「新しい成長のエンジンを整備する」とともに、「地域の活力を高め」、「市場を拡大し、活躍の場を広げ」ることが必要。つまり
人々の活力を抜き取る
突っ込みどころ満載なのだが、基本的には社会保障に関する国の責任を不問にし、ボランティアやNPOでセーフティーネットを作れという話。
人々の活力を引き出すためには、「将来不安の払拭」、「教育、人材育成」、「多様な労働力の活用」、「「平等」から「公正」への価値観の転換」を図ることが重要であると思います。
将来不安を払拭する
自ら支払ったものを大幅に超える給付を維持していくことには、限界が見えております。一見優しく見える制度ですが、子々孫々への負担の付け回しでしかありません。
すでにここで、互助制度にスクラップされた社会保障観がある。それを抜きにしても今まで払ったものはどこに行ったのか、批判も反省もない。
持続可能な経済成長の社会においては、社会保障を充実させると社会崩壊を招くのか。とにかく徹底的に給付を切り詰め、負担は企業ではなく国民の消費生活に負わせるというのが、希望の国のために必要だと。
もう、将来不安を払拭するというより、将来負担を振っておく。
教育のあり方を見直す
最近、教育や大学の見直しと言うとき、学問の価値とか、学問の自由というより、いかに産業や商業に奉仕する大学にするか、いかに即戦力の人材を輩出するかという話ばかりでイヤになる。まず文学部は廃止ね。
たとえば、努力や勤勉が美徳であるということや、学校や地域など自分の属する社会において、お互いに助け合い協力することが人間として大切な行為であるという、日本人が伝統的に培ってきた価値観を徹底して教えることが重要だと思います。
まあ、日銀の福井総裁なんか見てると、努力や勤勉が馬鹿馬鹿しくて、むしろ村上だとか宮内だとかそういう倍返ししてくれる知り合いを持ってることが人生重要だとテレビは教えてくれる。そういう人と知り合いになるには高額学費を払ってそういう人が行く学校で学友になるか、ヤクザになって脅しで近づくかどちらかしかないね。
将来不安でピリピリして公立学校=貧乏人と彼らの行く学校を馬鹿にして、われもわれもと私学に行かせるような状況になっているのに「お互い助け合い協力する」ことが「人間として大切」と言われても、ムリ。
だからこそ「徹底して教える」のだろうけど、数学の公式と違って、徹底して教えられてドリルをやればやるほど検証され定着する知識ではなく、「徹底して教え」られたことと現実とが「徹底して矛盾している」ことばかりが日々検証されるのだから、革命が起きちゃうか、鬱になっちゃうか、二枚舌なイヤな奴になるか。
むしろ、努力せず勤勉でないのに楽々に生活できるのがカッコいいこと。互いに蹴落としあうのが活力の源泉であること、とはっきり言えばどうか。はっきり言っている教師・教員も居ると思う。
受験戦争に勝ち抜くためには公的教育では不十分だから子どもを塾に通わせ、その結果、家計の負担が大幅に増える、というのは、どこか不自然な話だと思います。高い学費は機会均等を阻害する要因でもあります。
一応、まともなご意見と言っておきましょう。でも、ではどうするか希望の国が楽しみです。
多様な労働力を活用する
女性、老人、ニート・フリーター、総力戦で国際競争に打ち克つ。それぞれの不十分さに見合った「職務給・役割給の導入が、さまざまな課題への解決策になる」らしい。