▼悟性的ということ


新・後藤和智事務所 〜若者報道から見た日本〜

において、2006年1月〜3月のワースト・ワンに輝いた書籍はこれ。

実は私も週刊誌で速水氏自身による要約を読んで、若者論・青年論としては何も期待しなかったが本書を本屋で購入した。
なぜって、速水氏の肩書きは、名古屋大学教育学部「心理発達科学」専攻の教授なんだから。どうして「発達」を研究する専門職にありながら、どうしてこうも三流週刊誌的なことが書けたのか、ということのほうに興味がわいたからです。

一読しての感想は概ね
冬枯れの樹 http://newmoon1.bblog.jp/entry/279624/
と同じだったので、ここでは私の感想には論及せず、別に機会があれば速水氏を分析してみようと思う。一読しただけではどうしてこんなものが書けたのかはわからなかった。伝わってきたのは初老のおじさん臭のするイライラ感だけである。

悟性

ところで、この本のように、原因も歴史も構造も無視して、自分が見た現象だけをあーだこーだいじくって、痛いところに湿布を貼りまわすような精神の働きをヘーゲルは「悟性」と呼んでいる(はずである。うろ覚え)。
どうも、この本を読んでイライラするこの感覚は何か、思い出せないでいたが、これが「悪しき悟性」だということを思い出した。もう少しうろ覚えの範囲内で正確に言うと「悟性」は「原因」を無視したりはしないが、悟性の言う「原因」は「結果」を言い直した程度の原因である。例えば、「落ちてきたのはなぜか」→「上にあったから」。