▼欺瞞的な「整理」
私自身も原爆の被爆地・被爆者と1〜2媒体くらいの縁があるので、引用して何か言う資格はあるだろう。
抜粋
久間防衛相、講演で「原爆投下、しょうがない」
2007年06月30日22時23分久間防衛相(衆院長崎2区)は30日、千葉県柏市の麗沢大学で講演し、1945年8月に米軍が日本に原爆を投下したことについて「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」と述べた。……
安倍首相は同日夜、「核を廃絶することが日本の使命だ」と述べた。
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【久間氏の発言要旨】日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。
幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。
米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。
http://www.asahi.com/politics/update/0630/TKY200706300263.html
ブックマークでも触れたが、わたしの個人的な体験の中では、こうした意見は70年代までは珍しくない一般的な意見であった。こうした考えが駆除されず残っていて大勢の前に出て行って口にするのは珍しい。アメリカに盲従する人の一つの欺瞞的な歴史認識の「整理」の仕方である。
追記:
長崎県下では8月9日の原爆投下時刻にはサイレンが鳴らされたりして黙祷の合図をする。夏休みの小学生は登校日になっていたりもする。
しかし、私が通っていた長崎県の小学校のクラス担任は「原爆のおかげで戦争が終わった」と説明していた。
多くの人が指摘することだろうが、これだと「何か」を終わらせるためには無辜の人々であっても原爆を使っても「仕方がない」という論理であって、久間の言う「戦争」の評価を度外視しても安倍の「核を廃絶することが日本の使命だ」という見解とはそぐわない。
まぁ、沿岸防衛のためにクラスター爆弾も必要というのだから(素人の私にはわからん)、目的のためにはなんでも仕方がないのだ。あんまり意見すると監視対象になるよ。