▼愛国心教育について

  1. 「国民間において「愛国心の涵養」が必要だ」と、権力者から言えばどうか。
  2. 「国民に愛される国家になる必要がある」と、権力者が言えばどうか。
  3. 「生徒間において愛校精神を培うような式典の工夫が必要だ」と校長が言えばどうか。
  4. 「生徒に愛される学校運営を行う必要がある」と校長が言えばどうか。


戦後、少なくとも1950年代後半まで、教育界ではさかんに「愛国心教育」「民族教育」「道徳教育」が叫ばれていたらしい。
「叫ばれていた」というのは、日教組社会民主主義者、共産主義者を含む)、学者、教育(教師)サークル、政府官僚それぞれがそれぞれにそれぞれを論難しはしたが、論議にはならなかったらしいからである。
マルクス主義教育学を説いた矢川徳光でさえ、愛国心教育・民族教育の必要性を主張していたのである(「民族問題と教育」『教師の友』1954年1月)。
愛国心をより削ぐような議事録とともに、教育基本法の改正が成立し、「法律」によって「愛国心のカタチ」が外的に強要されればされるほど、本当の愛国心とはどのようなものか、さしあたり「階級」概念を捨象したときの=ユートピア=公的世界=天上の世界としての『「国民主権」のもとでの国家』とはどのように理解されるべきものか、この分野でのイデオロギー闘争がますます重要になってくるだろう。
「酷策」たる「国策」に私財も私命もなげうって、財力や権力に嬉々として従い、貧しき者は四季のない砂の異国で国の名において突然の死を遂げる、というようなことが愛国心であってほしいと願う者はいまい。そのことで家族が村八分から免れるのだとしても。
単純に「国」や「国に奉仕する企業」のために、生命や財産を基底とする基本的人権を犠牲にする心情、犠牲を厭わぬ態度が愛国心だとするなら、話としては簡単である。
でも本当のところは「簡単」なのだろう。
これからは「愛国心」を反射的に忌避するのではなく(或いはそれだけではなく)、「抵抗権を行使できる愛国者=市民」(そういう概念が社会思想史や政治思想史のどこかにあると思う。無学のため不知)を育成すること、醸成すること、自分の頭で考える批判的主権者の輩出こそがますます目指されなければならないであろう。



しばらく、修身や道徳教育、愛国心教育、民族教育などについて勉強してみようと思う。