「教育勅語」という装置

2017.7.4 赤旗10面 学問・文化


不敬事件・殉職事件と教育勅語
物神化高じさせた社会的アクセル

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小股 憲明
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おまた・のりあき
大阪芸術大学短期大学部教授(教育学)。1947年生まれ。『帝国議会と教育政策』『国民文化の形成』(共著)、『近代日本における国民像と天皇像』ほか


 明治中期から昭和戦前期において、教育勅語(以下勅語)と御真影天皇皇后の肖像写真)は国民教育に深甚な影響を与えた。三大節(元旦、起源説、天長節、昭和初期からは明治節を加えて四大節)儀式では、「君が代」合唱のほか、御真影への最敬礼、勅語奉読、勅語に基づく訓話を行うと定められていた。忠君教育の重要な道具立てとして厳密な保管義務が求められ、数多くの不敬事件を引き起こした。


仰々しく報じる新聞の攻撃恐れ


 勅語に対する最初で最も有名な不敬事件は1891年、第一高等中学校(現東京大学教養学部)の勅語奉読式で最敬礼しなかった(少ししか頭を下げなかった)ことで依願退職に追い込まれた内村鑑三事件だが、これ以外にも、勅語奉読の際正装しなかった、読み誤った、教員の服装が不適切だった、儀式終了後に御真影の帳(とばり)を閉じないまま教員が退席した、御真影を粗略に扱ったなどが不敬事件として新聞各紙によって仰々しく報道された。
 同種の不敬攻撃をさけるために学校関係者は勅語御真影の取り扱いに最新を期すようになり、それらを崇敬せねばならないという社会的意識が形成されていった。学校火災、天災など不可抗力による消失、流失でも、新聞は「畏れ多い」「大不敬」と報道し、校長、宿直教員らは管理責任を問われ処分された。
 そうなると、校長らの排斥をもくろむ教員・保護者などが勅語謄本・御真影を故意に隠匿、焼却する事件が続発した。校長らが管理責任を問われて減給、降格などの処分を受けることが必定だったからだ。

御真影「誘拐」し身代金要求する


 昭和期になると「御真影誘拐」事件まで起きるようになった。御真影を盗み出して校長に身代金を要求するという犯罪である。処分を恐れた校長が、犯人の求めに応じて秘密裏に身代金を払う事件がいくつも発生している。
 ある事件では、犯人に金を渡すのではなくまず警察に届けるべきだったという批判に対し、県の学務部は「御真影を無事に取り戻すことがなにより重要だったから」と校長を擁護した。これがいかに滑稽か誰も気がつかないほどに、御真影奉護は当然という意識が広がっていたのである。
 殉職事件も多数発生した。最初の例は1896年三陸津波の際に、御真影を救い出すために逃げ遅れた小学校長である。火災時に御真影を取り出そうとして焼死した仙台の中学校書記、御真影救出のために猛火に飛び込んだ長野県の小学校長、朝鮮の小学校校長などが相次いだ。勅語謄本盗難で減俸処分を受けた北海道の小学校長が、5人の子女を道連れに服毒自殺を図るという事件も起きている。
 多くは忠君美談となった。いくらでも複製できる社員のために命を粗末にするなとの意見もあったが態勢を覆すことはなかった。
 殉職事件の続発から、燃えやすい木造校舎とは別に耐火構造の奉安殿を建て勅語謄本・御真影を保管する方向に向かったのである。その後も、写真に生じるカビが大問題となったり、戦時中は児童より御真影の避難が最重要事項とされる信じがたい事態になってゆく。
 敗戦後、御真影は回収、焼却され、勅語謄本も衆参両院での排除、失効確認決議を経て、回収、焼却された。
 不敬事件も殉職事件も勅語謄本・御真影の物神化という共通の意識から生じている。いったんギアが入ると、単なる紙切れが物神化され、多くの不敬・殉職事件に媒介されて高進する社会的アクセルが踏まれ続けたのである。
 今日誰もが、そのような社会の異常性を嗤うであろう。しかし、いま本当に嗤うことができるだろうか。先頃、内閣は教育勅語の教材としての使用は一定の条件をもとに可能と閣議決定した。学校儀式で「日の丸」「君が代」を尊崇しないとみなされた東京、大阪をはじめとする多くの教員が懲戒処分を受け、再任用を拒否されているのである。

https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/blog/index.php?eid=169

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